リーキーとアフリカ(2)

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左から、ケニア初代大統領ジョモ・ケニヤッタ(キクユ族出身):ケニア国旗:ルイス・リーキー(キクユ族の中に育った)    

ルイス・リーキーはラガーマンだった

キクユ族の長老から「白い顔をした黒人」と呼ばれたルイス・リーキーは、野性味溢れる少年として育ち、運動神経も抜群に優れていた。母親の病気療養の為に一家は英国へ戻りますが、その時に彼が進学したウェイマス・カレッジでは、彼の優れた身体能力を放っておかずにラグビーに誘われる。これがサッカーであったなら、もしかすると人類学者ルイス・リーキーは誕生しなかったかもしれないし、そうすると、世界の化石人類の歴史も相当違っていたかもしれない。ただ一人の生き方や出会いで人間社会の「歴史」さえも変わる。日本にも、そういう偶然というか運命は無数に起きています。

忽ちラグビーの魅力に憑りつかれたルイス少年はあっという間に才能開花。闘争心も相当なものだったのでしょう。そして、頭は良い、物知り、抜群の運動神経とくれば、同級生のみならず、下級生、上級生の女性達の憧れの的となる。キクユ族の生活圏で育ち、元来人間が持つ生存本能(性本能)の目覚めも早かったルイス少年は無類の女好きだったし(生涯、女性トラブルと付き合うことになる)、恐らく、相当モテた。いや、モテたかどうかよりも”肉食系”だったことは間違いない。そしてケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジへ進学する(1922年)。

ケンブリッジ大学と言えば、オックスフォードと並ぶ名門校で且つラグビー界に長く君臨する(現在も)二大巨頭の一つ。ルイス・リーキーがケンブリッジの正式なラグビー部員だったかどうかは不明ですが、ケンブリッジ大学入学翌年のラグビーの試合中に、相手チームの選手から頭を蹴られて、それが思いのほか酷い状態だったことで1年間の療養休学を余儀なくされる。これで、ラグビー選手としての道は閉ざされた(生涯、後遺症の頭痛に苦しめられる)。しかし、10月1924年の恐竜遺跡発掘調査団への応募は、この事がなければ無かったかもしれない。災い転じて福だったということか?(人類にとっても、リーキー家にとっても)

アシュール文化との出会い

結婚と”最初の”功績

前置きが長くなりましたけど、1927年。前回に続けますが、エレメンタイタ湖傍のカンブル洞窟を発掘調査していたルイス・リーキーを訪ねて来たのが最初の妻となるヘンリエッタ・ウィルフリーダ・アバーン。尤も、一人じゃなく彼女の友人と連れ立っての訪問ですので、”洞窟の愛”を昇華させたわけではないですが、考古学を専攻したヘンリエッタとルイス・リーキーは意気投合し、翌1928年に結婚する。結婚が先か、最初の発見を機に結婚を決めたのかはちょっと分かりませんが、ルイス・リーキーは、同年、ケニア・ナクル郡ナクルタウン近くのカリアンドゥシというマーサイ族の集落で、アシュール文化の遺跡を発掘した。

前回も書いた通り、マーサイ族にとっては英国人もキクユ族も、自分達の生活圏を奪った敵。英国人であり、且つキクユ族のように育ったルイス・リーキーがマーサイ族の集落で発掘調査を許された事の方が私的には驚き。因みに、カリアンドゥシという地名の由来は、マーサイの青少年(モラン=大人になりかけの段階)が盾などに塗る白い塗料を指す言葉らしい。そういうことを知ったからってどうってことない話ですが、兎も角、其処はマーサイの生活圏であり、ルイス・リーキーはマーサイ族にも認められた研究者だった。

アシュール文化圏の拡大

アシュール文化の特徴としては、ハンド・アックスの素材が石材よりも寧ろ軟らかな鹿角や木製のハンマーで加工が施され、調度品的要素も加えられるようになったこと。つまり、ただの石斧ではなくて、見た目に”芸術性(意匠性)”が出て来た。「自分の持ち物」に対する愛着・愛情が現れるようになったわけですが、その文化圏は、フランスのサン・タシュール(Saint-Acheul)遺跡に限定されるという見方だった。そして年代も、今から70万年前後という事だったのだが、ルイス・リーキーは、自身が発掘したカリアンドゥシの文化がアシュール文化と共通していることを証明し、このことで、アシュール文化は、今から140万年前の東アフリカを起源に持つように変わった。正に、時代が未来へと進めば進むほど、過去が明るみになったわけです。

但し、この頃の代表的文化の一つであるアブビル文化(=シェル文化/北フランス・アブビルのソンム川高位段丘の遺跡)のアフリカ版はまだ発見されていないので、今のところ、ハンド・アックスを使用する石器文化が、ヨーロッパ(北フランスなど)で一段と進化したという見方は続いているし、否定されてもいない。元々、シェル文化と呼ばれていた頃のアブビル文化とアシュール文化は同質の文化と考えられていたが、カリアンドゥシの発掘で”焦った”「ヨーロッパ進化説派」によって、アブビル文化が確立したという”穿った”見方も出来ないではない。

ちょっとややこしい話となるのですが、この時のルイス・リーキーは、カリアンドゥシから持ち帰った二体の化石人骨の内の一体は、60万年前の”ヒト”と酷似していると推定した。その60万年前のヒトを発掘したのはドイツ人のハンス・レックで、その発掘場所は現在のタンザニア北部のオルドヴァイ渓谷。この場所こそが、やがて、ルイス・リーキーの名声を動かぬものとすると共に、人類にとって最も重要な化石人骨アウストラロピテクス・ボイセイが姿を現す運命の場所となる。

人類学上の英独同盟

ハンス・レックとオルドヴァイ渓谷

アウストラロピテクスにはもう少し後に登場して貰いますが、ハンス・レックが60万年前の「オルドヴァイ人」を発見したのは1913年。しかし、現在でこそ”市民権”を得たオルドヴァイ人のことを、1913年当時の人々は認めようとしなかった。60万年も前に「ヒトはいない」というのが当時の世界の常識だった。現代のように、700万年前にまでヒトの登場が遡った事実を、たかだか百年前の人々は一笑に付すどころか「大嘘吐きメ!」と石でも投げつけそう。誰も受け入れてくれなかったことでハンス・レック教授は主張を取り下げ、それ以降は、新発見に懐疑的な側の一員でさえあった。

ハンス・レックとは、1924年~1925年の発掘調査時に知り合っていたルイス・リーキーはベルリンへ向かう。そしてハンス・レック教授に対して、今すぐにでもオルドヴァイから古代石器を(次々に)発掘出来る。それはアシュール文化と共通するものであり、オルドヴァイには無限の可能性があると訴えた。乗り気じゃないハンス・レックと賭けをして、兎に角、付き合ってくれと頼み込む。第一次世界大戦の敵国であり、更に、やがて訪れる第二次世界大戦でも敵国となるイギリスとドイツの学者(ルイス・リーキーは、この訪問の翌年・1930年に、27歳で博士号を得ている)が、1931年にタッグを組んでオルドヴァイ渓谷を目指す。この時のリーダーは若いルイス・リーキーが務めたが、ハンス・レックは、調査隊の人選にも尽力した。

ホモ・カナメンシス

オルドヴァイ渓谷に着いて程なくして、ルイス・リーキーは、豪語した通りにアシュール石器を発見してみせた。賭けに勝った彼は、笑顔が戻ったハンス・レック教授に、賭けの勝ち分の10ポンドを要求した。良い話だねェ。現在の1ポンドは135円前後。当時の価値とレートはちょっと分かりませんが、ステーキとワインで乾杯出来る程度でしょうか。その日のお酒と食事は美味しかったでしょうね。

そして、彼らは、1913年のハンス・レックの発見を再検証する。その中から、人骨以外の化石と道具が大量に出て来た。全て、アシュール文化時代のものと近似していた。ケンブリッジ大学でそのことを発表するが、1931年のイギリスでも、1913年のドイツ同様に否定的な教授達が多数を占めた。寧ろ、ドイツ人の功績を称える結果になることを喜ばなかった。これで闘争心に火が点いたルイス・リーキーは単身オルドヴァイ渓谷へ戻って、ハンス・レックの為の証拠発見を目指し、そしてそれは成される。より多くの化石を発見したルイス・リーキーは、60万年前のオルドヴァイ人に対して「ホモ・カナメンシス」と名付けた。そこの地名がカナムであったことによる名だ。

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