赤ちゃんとの関わり方が社会を育てる

史書その他、書評

直立歩行

人間は、直立歩行を可能とした。が、それを成す進化の過程では、計り知れない苦労も経験した。

人間の脳は、他の動物に対して圧倒的に大きい。必然的に、その大きな脳を収める為の人間の頭骨は、全体骨格に対して相当重い。いきなり二本足で立った場合、簡単に支えられるような代物ではない。(現代人でも、いきなり起きたらふらつく)。(人間の)脳の大きさ、頭骨の重さは、赤ちゃんが、生まれてすぐには立ち歩きが出来ないことに大きく関係している。産まれて直ぐに立ち上がろとする馬の赤ちゃんや数週間で愛らしく遊び回る猫の赤ちゃんに比べて、人間の赤ちゃんは”出来”が違う(可愛さでは猫に劣るし、元気さで馬に劣る・・・なんていう意味でもないけど)。

人間は、二本足での直立歩行を可能とする迄に進化したが、そのついでに、卓越した視野と勤勉な手を手に入れた。しかし、進化に於ける代償も大きく、特に、腰痛と肩凝りには苦しめられることになる。更に、母体となる女性の身体は、その代償を大きく受けた。

母体の変化と熟さない子

バランス良い直立歩行を可能とするには腰回りを細める必要があり(太ると、必然的に歩き方が下手になる・・・という事で、♂の私でもダイエットが必要)、(進化した人間の)女性の産道は狭まった。ところが、産道は狭まったのに脳は一段と進化して大きくなった。つまり、胎児の頭は女性の産道の狭まりに対して反比例したわけだ。狭い産道を通して赤ちゃんを出産する羽目となり、この事に因り、女性は命の危険に晒されている。これは理不尽極まりない事だが、母体が新たな命と引き換えに死する現象は、自然界では珍しくない。その、珍しくない部類に人間も属するところだったが、そしたらまた自然に進化して、赤ちゃんの脳と頭がまだ比較的小さく柔軟である早い時期での出産が可能となった。しかも、出産技術の進化により(産婆さんや産婦人科医の出現等々)産みの苦しみも比較的和らぎ(それでも苦しいのは理解しています)、安全な出産も可能となった。しかしこの事は、人間の赤ちゃんが、他の動物で言えば、まだ胎内に収まっていなければならない状態で生まれて来ることを意味する。生まれてすぐの早い時期に自力で立とうとする他の動物の赤ちゃんとは明らかに違うわけだ。

人間の赤ちゃんは、生命維持に必要な機能の多くがまだ未発達のままで世の中に出て来る。全く未熟のまま姿を現す人間は、生まれてから何年間も(現代人の子は10年以上も)、親やその他年長者、社会からの保護がないと命を保てない。それどころか、一生涯、自力だけでは生きられない人が殆どだ。

育児サイクルと人間社会

しかし、この出産~育児サイクルこそが人間の「社会」形成の原点である。自活出来ない子を産むお陰で母親は子離れ出来ない。子も当たり前だが長い期間親離れしない。子がまとわりつく母親は、自分の力だけでは十分な食料を採取出来ない。子を育てるには、周囲の手助けが不可決となる。子は母親だけのものではない。当然、家長たる父親は妻と子を食わせる為の働き方を始める。しかし、四六時中、妻と子を見守ることが不可能な父親は気が気でならずに仕事も覚束無い。それでは周囲も困る。というわけで、男がしっかり働けて、女は安心して子育てが出来る、人間独特の助け合う仲間社会という環境が構築される。

というわけで、逆に考えれば、孤立の危険性がある男女は結婚して子どもを生み育てることなど安易に選んではいけないのだ。しかし・・・
社会から孤立したような夫婦が実に多い。赤ちゃんを育てることに無理が生じるのも当たり前だ。本来の人間の生活に逆行している誤った結婚生活は赤ちゃんを不幸にするだけ。人間の歴史は誤った方向へ向かっている。

話が妙な方向へ向かう前に〆るけど、人間社会には赤ちゃん(新しい命)が必要だ。赤ちゃんが生まれ辛い(育てにくい)社会環境では、きっと人間関係がギスギスするばかりだと思う。老人だけの社会では助け合うのではなく嫌い合うのではないかな? 

というようなことを強く思わされる『サピエンス全史』ですが、ほんと面白い。ユヴァル・ノア・ハラリ氏が同性愛者である事を理由に読むのを躊躇していたが、特に男性同士の同性愛は嫌いだが、この人の考え方には敬服する以外にない。

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