資源を持たないフリをするしかない日本国・前編~人と石炭とラグビーの話~

憂国論

日本は資源国であってはならない?

日本は、「資源を持たない国」という事になっている。言い方を変えると、「資源国であってはならない国」という事でもある。国内外に対して、「資源が無い国」と思わせていた方が何かと都合が良いという政財界各方面の思惑が絡んでの事なのだろう。この場合の思惑とは、大同小異ではなく千差万別を意味するが、日本人特有の”勿体ない精神”に因る「物を大切に」の考え方も加わって、「資源を持たない国」である印象をより強くしている。

日本は、ヒトを粗末に扱う国?

尤も、「物を大切に」して来た古来の日本人の姿は様変わりして、ゴミとして捨てられる中にはまだ全然利用出来るものが”物凄く”多く含まれている。特に、食品フードロス問題は深刻化の一途を辿る。その他、日本社会を見渡せば、「全く大切にされていない」”モノ”だらけである。取り分け、ヒトに対する扱いは酷く、命はまだ全然尽きていないのに、「必要とされていない」「粗末に扱われている」などと感じている国民の割合は上昇するばかり。
各家庭に於いては、働き盛りの男達は妻や子供から粗大ゴミ扱いされ、夫をゴミ扱いする妻は近所付き合いに弾き出され、父や母を邪見にする子ども達は学校その他での交遊関係に苦しみ、家庭内に居場所が無いのに職場に行っても上司・同僚の言動行動に追い詰められ・・・という具合に、何々ハラスメントが至る箇所に溢れている。そのように感じている国民が大勢いて、国全体にフラストレーションが溜まっている。それに輪をかけるように、政治に於いて、諸外国から云われ放題やられ放題。これでは、「酒でも飲まなきゃやってらんねェ!」筈だけど、日本人の一人当たりのアルコール消費量は、1992年のピーク時(年101.8リットル/人)に比べると、最近では80リットル/人を割り込んだと見られているので2割も減少している。セックスレスの男女も圧倒的に増えたというし、皆、何処で発散しているのだろう?発散するものをどんどん失くしているので、どうしようもなくキレる人達が増えているとも考えられる。

宝の持ち腐れ

そういう中、時折ではあるが、「新資源発見!」の報が社会を賑わすが、瞬間的に終わるものが殆ど。何故なら、エネルギー資源として利用する事は可能でも、それを採掘したり再利用したりする技術開発運用費の方が、輸入資源利用よりも桁外れにバカ高いという「打消し報道」が即座に走るからだ。つまり、「挑戦するだけ無駄だ!」「止めろ!手出しするな!」「金もないくせに、無駄遣いするな!」の声の方が圧倒的多数となって、発見した”お宝”は、利用価値もないのに(利用する気も無いのに)断捨離も出来ない”ゴミ”に等しき状態。ゴミは言い過ぎだが、ゴミより酷い。ゴミならいつかは捨てられるが、ゴミにも出来ないから「宝の持ち腐れ」状態。

ヒトというこの上ない資源を1億2千万人も持ちながら、その半分以下の人口しかない国々の民の裕福さの足元にも及ばない国である日本は、資源の有効活用手段を構築することが下手糞過ぎる。結局、フロンティア精神とか勇気のようなものが著しく欠落しているからだろう。引きつり笑いして他人に合す(諂う)ことばかりやって来たから度胸と覚悟が足りないのだ。だから、磨けば光るヒトを育成する時間や経費を「無駄」と言って嫌い、大きな燃料エネルギーとなり得る資源開発も同じような理屈で「無駄」と言ってミスミス見捨てる。

何とも切なく寂しい限りだが、自分自身を社会のゴミだと思い込み過ぎている人が多過ぎるのも、折角の資源をエネルギー燃料に利用しようとしないのも、やっぱり、物を大切にする心など完全に薄れてしまい、無駄遣い三昧になってしまった国民性の変化による影響だと捉えるべきだろう。そして、国民を愚かな方向へ導いているのは、その国民が何の考えも無しに安易に政治家を選んでいることの自業自得でもある。

日本が手を出せないでいる自国資源

何か、書いていて物凄くムカついて来たし、自分自身の部屋を見渡すと「何じゃこりゃ!」というゴミの山状態・・・今日は掃除しよう(苦笑)という掃除の”決意”はさて置き、日本の資源やエネルギー状況をお浚いしておこう。
資源はある筈なのだ・・・

近年のニュースに出て来た国内資源情報はだいたい以下のようなもの(※東シナ海のガス・油田は、尖閣沖も含めて、どうせ宝の持ち腐れに終わるだろうから全く無視しています)。

日本列島の海域全体に大量分布している事がほぼ確実とされる・・・
 海底熱水鉱床(金・銀・銅・亜鉛・鉛など)
 マンガン団塊(鉄・マンガン団塊、コバルト・リッチ・クラストなど)
南鳥島周辺海域のレアアース
沖縄本島沖のレアメタル

以上は、”ちゃんと”掘削すれば、外国(特に支那)に頼らずに済みそうな工業資源だけど、何せ、上述したように海底掘削なので確かに費用対効果で当初は大赤字スタートになるのは間違いない。が、どんな事業でも、最初から大黒字は有り得ない。それは国内の開発事業は百も承知している。にも関わらず手を出す事に臆しているのは、製品開発企業にとっては、現在のまま、海外輸入の鉱物資源の方が明らかに安く済むのだから、わざわざ高い金を払って国内資源利用に協力する事を了としないという明確な理由から。現在の輸入量と輸入量に基づく支払費用が適正であればあるだけ変更は難しい。コスト高を理由に国内企業が購入しない国内資源を、ましてや海外企業が購入してくれる道理が無い。お宝はあるのに取り出せない。さてどうしたものかね・・・日本は鉱物資源産出国となれる筈なのになれない。知恵者はいないのか?実に勿体ない話だ。

日本が、見捨てた資源~福岡の石炭事業の歴史~

いや、もっと勿体ない話がエネルギー燃料資源。中でも、環境汚染問題や安全問題や価格問題で殆どの炭鉱が操業停止(閉山)に追い込まれて、それこそ宝の持ち腐れと化している黒ダイヤこと石炭

日本は、嘗て、国内産出だけで十二分に賄えた”燃える石”=石炭を大活用して一大工業国を成した。露天掘りさえ可能だったように、豊富な埋蔵量を誇った各産炭地は活況を呈したが、今、その賑わいを維持している場所は皆無に等しい。(※日本の露天掘り炭田の多くは坑道掘りへ移行した。露天掘りにも坑道掘りにも落盤事故など大きな危険が伴うが、坑道掘りとなって以降は特に炭塵爆発や火災が繰り返し起きて、多くの犠牲者が出たのも事実。)

三池炭田

石炭活用最盛期には、全国に800以上の炭鉱があり、私の祖父(大工でもあったが)やそのまた上の先祖達も三池炭鉱に潜っていた。親父殿も、炭鉱系機械製作企業に従事していたし、炭鉱あってこその我が家だった。親戚一同の中にも、炭鉱に関わっていた人が少なくなかったが、男連中があまり長生きではないのは、やっぱり炭塵を吸い込み過ぎたから?と言うより、酒飲み過ぎだろうな。我が家系の男子達の一人当たりアルコール摂取量は日本の平均値を大きく上回っている筈。多分、色々とフラストレーションが溜まりやすい家庭だったのだろう(苦笑)

三池炭鉱の「燃ゆる・・・石(燃えるではなく、大牟田では「燃ゆる」」の歴史は、1469年の農夫・伝治左ヱ門による発見に端を発し、1721年には、柳河藩による採掘事業が始まった。現在の大牟田、当時の三池には、柳河藩分家の三池藩が置かれ(1621年)、7代185年続いた。三池藩は、石炭採掘を一手に握り、幕府も商売相手だった。三池藩は地方小藩ながら、石炭事業の力で幕府末期の若年寄なども輩出する。
肥後熊本の細川藩も、幕末期に荒尾に坑道を掘り、それと三池藩の坑道がぶつかって両藩が一触即発状態となる。相手は九州の大藩だが、ずっと以前より事業展開していた三池藩は引かずに幕府を困らせる事態となる。明治維新が成って新政府が発足以降も、熊本県(荒尾)と大牟田(三池)の炭鉱境界争いは酷くなる一方で、そのいがみ合い(何処までが大牟田で何処からが荒尾か、という境界線争い)は昭和になっても続いていた。県境の子ども同士も、それをネタに喧嘩していた。多分今でも続いているのでは?
嫌気が差した明治新政府は、三池郡~大牟田、そして荒尾の坑道全て一緒くたに「三池炭鉱」として官営炭鉱とした。しかし、名ばかり国営で、其処から産出された黒ダイヤ(石炭)の販売取扱いは、三井組=三井財閥がその為に設立した三井物産が牛耳っていた。
三井と政府の癒着は大きな問題となり、それを強く糾弾された政府は、三池炭鉱の入札要求を呑む。そして入札の結果、三菱の価格を三井側の代理人(と言うか、名前を借りただけ)佐々木八郎が提示した額455万8千円(現在では、約502億円?)で2300円ほど上回った。この金額は、当時の三井組の最高事務長だった団琢磨が指示したとされる(団琢磨が私費を上乗せして勝ったという伝説がある)。ここに晴れて「三井三池炭鉱」が誕生する。そして、大牟田に本格的探鉱企業・三井鉱山が操業を開始。
三池炭鉱には、宮原坑、七浦坑、四ツ山抗、万田抗(荒尾)などがあったが、戦時中に三川抗が造られた。
戦後、1958年に、三井以外で初めて日鉄鉱業が進出して来て、高田町(現みやま市)に有明坑を開いたが、失敗。そこはやがて三井鉱山が買い取る(1972年)。が、それ以前に・・・
エネルギー政策転換により大量解雇が発生した各地の炭鉱の例に漏れず、三井三池炭鉱でもクビ切り(解雇)が始まる。これに強く反発した抗夫と家族達は大規模の抵抗(三池争議)に打って出る。が、時代の流れは、日本のエネルギーを支えた坑夫達に容赦しなかった。それどころか・・・
1963年11月9日に、最も新しい設備で開設した筈の三川坑が大爆発(炭塵爆発事故)を起こし、458人が死亡。一酸化炭素中毒患者839人が出るなど世界に衝撃を与える大事故となった。
大きな反省を強いられ、安全操業を強く求められた三井炭鉱は、有明抗を買い取り、それと三川抗を海底で繫ぐという試みに成功する(1977年)。
ところがその7年後の1984年1月18日に、有明抗で火災事故が発生して83人が死亡。一酸化中毒患者も16人と言う再び大きな炭鉱事故を起こした。
それでも何とか事業を継続していた三井鉱山だけど、1997年に閉山となる。2005年4月には国内最後の炭鉱労組だった三池労組も解散して、炭鉱の歴史は幕を下ろす。ところだったが、2015年7月に、宮原抗と万田抗と、炭鉱鉄道が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の一部に選ばれ世界遺産として登録された。大牟田とか荒尾に世界から人が来てくれるのか?・・・まだ取り消されてはいないけど、この先、それを維持出来るのかちょっと疑問。

三池炭鉱イメージ 左から、炭鉱列車 / 宮原抗 / 団琢磨 / 万田抗 / 三川抗事故

それは兎も角、三池炭鉱から採掘されていたのは国内有数の上質な瀝青炭だった。私の家のすぐ近くにも露天掘りがあったり、市内やその近郊の彼方此方に堀場があったけど、やがて坑道掘りのみになり、そして海底(有明海)へ。その深度が深まれば当然コスト高になるし、品質がどうのこうの以前に海外炭とは圧倒的な価格差が生じて、国は、火力発電燃料としての買い上げを停止。”炭坑節”の三池炭鉱も終わりを告げたわけだけど、三池炭鉱の他にも、福岡県には筑豊炭鉱や糟屋炭鉱など大規模優良炭田があった。

糟屋炭田

糟屋炭鉱(現在の志免町、宇美町、須恵町を中心に、産出量としては全国19位規模、採掘設備・技術的には全国トップクラス)は、そもそも、艦隊燃料確保を目的に海軍が開発保有していた事から、「海軍炭鉱」と称される程、軍との結び付きが強かった。世界に冠たる日本海軍が強く求めた良質の無煙炭の多くが、この糟屋炭田の石炭であり民需よりは軍需の為の炭鉱というイメージ。つまり、国家が国防目的の為に運営していた炭鉱とも言える。
敗戦によって、海軍から国鉄へと所管が移動したが、依然、お国のお墨付きの炭鉱だったけど、昭和34年の国鉄経営分離政策により鉱夫の不満が”爆発”。志免闘争と呼ばれる闘争などが起こり、それを嫌がった国は、民間への払い下げを断行。ところが、三井も三菱も住友も入札を辞退(拒否)。恐らく、高過ぎた?そして、昭和39年(1964年)に閉山となる。という経緯なので、埋蔵量の枯渇ではないから、この一帯にはまだ、良質の”黒ダイヤ”が眠っている。

筑豊炭田

筑豊炭田は、国内に約800程あった炭鉱の内、実に500近くの炭鉱が集中していた日本最大規模の石炭産出地帯だった。
日本最大の製鉄所であった八幡製鐵所を支える為の炭鉱事業所が日鉄鉱業だった。日鉄鉱業が操業していた鉱業所は二つ。一つは二瀬鉱業所で、現在の飯塚市に8坑と現在の嘉麻市(稲築)に1坑の計9坑。もう一つは嘉穂鉱業所で現在の飯塚市に5坑。両方併せて合計15坑から”黒ダイヤ”は産出され、八幡や戸畑の鉄高炉を支え続けた。
三菱鉱業は、現在の飯塚市に2坑。嘉麻市(山田)、鞍手町、福智町に1坑ずつの計5坑から、全国の三菱系工業企業を支える”火の石”を産出していた。但し、福智町(当時の方城炭鉱)では、死者・行方不明者が687人という日本の近代史上最悪の炭鉱事故を起こしている(1914年/大正3年12月15日)。
三井鉱山は、田川と嘉麻市(稲築)の計2坑。三池炭鉱と共に”炭坑節”で賑わっていた。
住友石炭鉱業は、飯塚市(穂波)に1坑。
古河鉱業は、飯塚市に1坑、川崎町・大任町を跨ぐ箇所に1坑の計2坑。
日本炭礦(ジャパンエナジーの原形~現JXホールディングス)は、水巻町に1坑。
貝島炭礦は、宮若市に1坑。一代で、嘗ての貝島財閥を築き上げた貝島太助は「炭鉱王」と呼ばれ、筑豊御三家(貝島、安川、麻生)の中でもトップに位置していた。1909年(明治42年)に、当時の宮田町・大之浦炭鉱で死者・行方不明者243人を出した事で組織改革に着手。私立の小学校を開校するなど地域貢献にも精を出した。ところが、太助が他界した1916年の2年後、1918年(大正7年)に、今度は376人の犠牲者を出す大事故を起こす。これで、太助の四男の貝島太市が後を継ぐことになり、病院を開業。従業員やその家族の健康にも気配りするようになる。太市は、「ご安全に」を企業標語として、労働環境に注視。それで事故は起こさなくなったが、家族経営主義の貝島は、多角化を戒め、探鉱事業一本やりだった為、石炭事業の衰退の影響をモロに受けて、1976年に会社更生法を適用して閉山。栄光は終わった。それに伴い、宮田町も衰退したが、近年、若宮町と合併して宮若市となり、トヨタ自動車九州の進出などで活気が戻って来ている。
明治鉱業は、桂川町と福智町(赤池)に1坑ずつの計2坑。安川家が興した炭鉱で、此処での稼ぎが現在の安川電機の資本の基礎を成したと言える。
麻生炭鉱は、飯塚市(庄内)と嘉麻市(碓井町・桂川町を跨ぐ箇所)に1坑ずつの計2坑。嘗ては、麻生グループの中核企業だった。
大正鉱業は、中間市に1坑。此処は、筑豊御三家に負けず劣らずで頑張った伊藤伝右衛門新手炭鉱(=中鶴炭鉱)と古河鉱業が共同出資して設立された企業。伝右衛門の話を書いたBLOG記事も当サイトに移す予定です。
主力大手と呼ばれた上記10炭鉱以外に、無数の中小炭鉱事業者が犇めき合って「筑豊」の名は全国に知れ渡った。

炭鉱事業のマイナスイメージ

三池炭鉱が国営だった当時、明治政府は、当時の三潴県(福岡県にまとまる前の筑後地方は三潴という県だった)の監獄の囚人達を炭鉱で使役した。働きが良かったのかもしれないけれど、三池炭鉱は、三潴県外の囚人も使役するようになり、刑期を終えた彼らの多くはそのまま大牟田に居着いて、炭鉱(やま)の男達は気性が荒いというマイナスイメージの要因にもなった。
それでも、三井財閥の企業城下町となる大牟田は、治安の悪さ(怖さ)を払しょくする為に色々と頑張っていた?その甲斐あって、一時は、久留米を凌ぐ繁栄を見せたのだけどね、今は、嘗ての賑わいに程遠い。

三池のみならず、糟屋も筑豊も大量の労働者を必要とした。それ故に、日韓併合以降は、朝鮮半島からの労働者も少なくなかった。この人達を「三国人さんごくじん」と呼ぶ風潮があり、日本人と三国人の争いは絶えなかった(戦後特に)。
更に、炭鉱利権に癒着する地元ヤクザと地元外の組織暴力団との抗争事件も絶えなかった。というように、福岡県の炭鉱に限らずイメージもあまり良くなかった炭鉱は、やがて”燃える水”=(輸入)石油に圧されて次々と閉鎖していった。

現在の石炭燃料は、クリーン化が進んでいる

埋蔵量がゼロになった炭田はあるだろうけど、三池炭田もその他も、石炭埋蔵量がゼロになったからと言うより、多くは、コストが見合わなくなったから已む無く閉山した。それでも、北海道では、今現在も、坑道掘り(釧路)と露天掘り(三笠)が続けられていて、北海道電力その他の電力会社の火力発電所の一部で利用されている。昔の石炭活用技術からは随分進化して、二酸化炭素排出量改善はまだまだ進化し続けていると言う。石油枯渇の事態になった時には、必ずや、石炭が復権する時が来る筈で、その時までにもっともっとクリーン燃料化を進めて行って欲しい。そうなった時に、三池炭鉱復活!なるかどうかは疑わしいが、「炭鉱マン(やまおとこ)」という人達が再び賑わって行く世の中が再来するとまた楽しくなるのだが・・・

石炭事業こそが、日本のラグビー創世期を支えた

(参照記事=≫「ラグビーの歴史アレコレ(9)」)

さてさて、今回の〆ですが、海軍さんの炭鉱であった糟屋炭鉱(=福岡炭鉱)や一時官営だった三池炭鉱などを直轄するのが「福岡配炭公団」。此処には、ラグビー・エリート達も多く所属していて、全国社会人ラグビー大会の初代王者(1948年)として福岡配炭公団の名は永久に刻まれる。
ここの選手達の多くが、九州最大のエネルギー供給事業者である九州電力に移籍して九電ラグビー部の歴史を刻み始めた。
九電に移籍しなかった選手達は、八幡製鐵所に移り鉄鋼マンとなった。
大牟田には、三井財閥グループの名だたる企業が軒先を連ね企業城下町と化したが、中でも、化学メーカー三井東圧化学(現・三井化学)は、有望なラグビー選手が在籍して、第二回社会人ラグビー(1949年)の全国王者となった。私が生まれる13年前のことだけど、大牟田に、ラグビー日本一の優勝旗があったとは。第三回以降は、そもそも圧倒的な力を誇っていた八幡製鐵所の名が刻まれるようになったが、兎に角、石炭王国・福岡には、高校・大学で活躍したラグビー・エリート達が大勢集まってくれていた。いつか、そういう時代が再来して、県内各地がラグビー熱で盛り上がらないものかな。

後編は、実は日本は、世界最大の石油備蓄国家(米国の二倍くらいの量を誇るとも云われる)であるとか、再生可能エネルギー話とか書くつもりです。

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