日本にラグビーがやって来た
2019年のラグビーユニオンワールドカップ日本大会は、日本社会のみならず、世界中のファンに対して、単なるスポーツイベントではない様々な何かを刻み込んだと思う。その”様々な何か”を言葉で表現するのは難しいけれど、招致にご尽力された方々や、巨大台風にも心折れずに大会運営を支えられている全ての関係者に感謝しています。
さて、英国人水夫によって、日本の地(横浜)で初めてラグビーが行われたとされる1874年から約1世紀半。奇しくも横浜は、ワールドカップで、日本代表が、初めてベスト8進出を決めた場所となったが、145年前に英国人が繰り広げた球技は、日本で最も愛される球技になる可能性を見せた。勿論、競技人口や経済面では野球やサッカーなどに遠く及ばない現実がある。が、ラグビーという競技が伝わった当時、それに携わった日本人たちが、「ラグビーの精神は、我が国の武士道に通ずる」として、ラグビーの中に消え行く武士道を見い出してその普及に力を注いだことが、ようやく理解されて花開こうとしている。尤も、武士道が云々は関係ない。「One for ALL,All for One」というラグビーの考え方は、今の日本にこそ最も必要なこと。
個人の価値は最も大切にされるべきだが、個人の価値は、社会全体の価値があればこそのもの。個人を大事にしない社会は廃れ行くし、社会を嫌う個人に価値は認められない。社会がどんなに酷い状態であっても、自分も含めて全ての人はその社会に生きている。自分だけが壁を作って社会を拒絶しようとするのではなく、
●自分が一歩前に出たら後に続く者を生かす為に手を差し伸べる。
●自分よりも一歩先に出た者を引き摺り下ろすのではなく、寧ろ、支えとなって背中を押す力となる。
●全員で工夫して道を探す。そして、高く掲げた目標に向かって全員一丸で掴みに行く。
全てラグビーのプレイに例えられる。 バックパス、 モール・スクラム・ラック、パント、等々これ程、日本人好みの競技が何処にある?
以前の記事でも書いたけど、これが、ユニオンじゃなくてラグビーリーグ(13人制)が先に伝わっていたら、恐らく日本にラグビー文化は根付かなかった。ラグビーリーグにはラグビーリーグの良さ、面白さ、カッコ良さがあるけど、ラグビーユニオンが先に根付いたからこそ、ラグビーリーグやアメリカン・フットボールも理解されたのだと思う。
日本ラグビー黎明期を支えた伝説的3人
銀之助とエドワード
1889年、16歳時に英国へ留学(リーズ校)して、1893年にケンブリッジ大学のトリニティ・ホール・カレッジに入学。そこでラグビーユニオンを経験すると共に法学士の学位を得て1896年に帰国。その後は当時の実業界(銀行界/鉱業界/鉄鋼業界等々)で活躍して名を馳せ、尚且つ、「日本ラグビーの父」と称され、日本ラグビー協会の初代名誉会長(本業多忙で会長職を固辞した為に、折れた協会側が名誉会長位を用意した)となった田中銀之助(1873年1月生)は横浜で生まれ育った。
銀之助と同じように横浜で生まれ育ち、生涯の友となり、共にケンブリッジ大学へ進学したのがエドワード・ブラムウェル・クラーク(1874年生)。エドワードの両親は英国人だったが、パン職人だった父親は日本でパン屋を営み評判を博していたという。エドワードは、14歳で横浜のヴィクトリア・パブリック・スクールに入学するが、その頃、銀之助と知り合ったとも云われているけれど、もっと早くから知り合っていたという説もある。
ケンブリッジで、共にラグビーをプレイした銀之助とエドワードですが、日本帰国後は別々の道に進み、銀之助は山梨田中銀行に役員採用され、エドワードは慶應義塾大学の英語講師となる。1899年、慶應大学の教授となったエドワードは「ここ(慶應)の学生にラグビーを教えたい」と銀之助を強く誘って、共に、慶應大学の学生達にラグビーユニオンのルールとプレイを指導する。尚且つ、エドワードは自身が選手としても活躍した。この事が、田中銀之助とエドワード・B・クラークの二人を「日本ラグビーの父」とする所以。横浜で生まれ育ったクラークは本当に日本が大好きで、”日本人”であることを自認していたと云う。今の時代なら、疑う事なく「日本代表」の一員だった(選手としてと言うより、日本を代表するラグビー人として)。
高木喜寛
1874年11月に東京で生まれた高木喜寛は、日本初の医学博士(海軍軍医)高木兼寛の長男。1891年に医学を志し英国留学。キングス・カレッジ・ロンドンに入学して3年間を過ごした後にセント・トーマス医科大学(現キングス・カレッジ・ロンドン医学部)へ進学。そこでラグビーに出会う。産婦人科と内科・外科の医術を習得して1899年に卒業。現在の東京慈恵医科大学を研究場として日本の医学界に多大な貢献をしていくのですが、同時に、ラグビーを広めることに尽力する。
日本ラグビー協会誕生
田中銀之助と高木喜寛
そして高木喜寛こそが日本にラグビーを根付かせた。その力量を見込んだ田中銀之助が、当時自身が務めていた関東ラグビー協会会長職を辞任して、自分よりも「絶対に適任者である!」と強く推して高木喜寛を第二代関東ラグビー協会会長に据えた(1926年/大正15年11月30日)。その2年後、1928年に日本ラグビー協会が設立され(1926年11月30日を創設日とする説もある)、此処でも会長職を固辞した銀之助に代わり、初代会長に高木喜寛が就いて、銀之助は”仕方なく”名誉会長を受けた。
銀之助が会長に就くことを固辞した理由は、「自分は直情的で駆け引きが苦手。これからの日本ラグビーは外国と渡り合う事にもなろう。自分は交渉で欺かれることが大嫌いできっと良くない交渉結果になる。しかし高木君ならば、きっと素晴らしいリーダーになれる。」というような事だったみたいですが、それは関東協会の会長職を退いた時と同じ理由。日本のラグビーが、本場イングランドに追い付くことを本当に願っての事だったのでしょうけど、「芸者遊びが出来なくなる」ことを嫌がっての事とも噂される(笑)何れにせよ、真っ正直で鳴らした銀之助が、高木喜寛を押し立てた事こそが、田中銀之助の面目躍如だったと云われる。
「日本ラグビーの父」は、日英の戦争を知らずに相次いで逝った・・・
一方、ラグビーと日本を愛して止まないエドワードですが、1907年にリウマチを発症して右足を切断。その後は学問の道一筋にまい進して、京都大学にも呼ばれた。そして、日本ラグビー協会設立の6年後、昭和9年に他界。日本とイギリスの戦争を知らずに済んだ生涯だった。「日本ラグビーの父」の一人、エドワード・B・クラーク氏は、神戸の外国人墓地に眠られている。そして・・・
エドワードがこの世を去った翌1935年(昭和10年)8月27日。もう一人の「日本ラグビーの父」田中銀之助氏も他界。こちらも、日英の戦争を知らずに済んだ。
高木喜寛の命日を日本代表は勝ったままで迎えて欲しい!
日本を代表する小説家・有島武郎の妹を妻に娶った高木喜寛は、ラグビーの母国イギリスと戦争した日本を生き抜き1953年(昭和28年)11月1日に生涯を閉じた。今年(令和1年)の11月1日は、ワールドカップ日本大会の3位決定戦。私の予想(希望)はあくまでも日本代表の全勝優勝なので、この日には日本代表の試合はなく、翌11月2日の決勝戦が日本代表の今大会最後の試合だと信じているけど・・・。でも、イングランド代表や日本代表がもしも11月1日に試合を行うことがあるのなら、日本ラグビー協会初代会長・高木喜寛氏に感謝しつつ酒飲みながら(献杯です・笑)観戦しよう。
日本ラグビー協会が創設され、高木会長(初代)、田中名誉会長という布陣で動き出した時、彼らは、日本とイギリスが戦争する事なんて絶対に望んでいなかった筈なのに・・・。それは勿論、エドワード・B・クラーク始め、日本のラグビー界発展に尽力してくれた英国人達もそうだった筈。もう二度とそういう(戦争の)時代が来ないように、切に願うもの也。
戦前の日本は、世界有数のラグビー大国だった
ところで、多くの人はあまり知らない話みたいですが、ラグビーが本格的に大日本帝国当時の日本に伝わり、銀之助氏やエドワード氏、そして高木氏などの尽力もあり、20世紀前半の日本ラグビー界は黄金期にあった。勿論、世界的に見ての強さがどうのこうのいう話では無いけど、国内に於けるラグビー部の数が急増。登録選手の数だけなら、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、3ヶ国の登録選手数の合計よりも上回っていた。恐らく、当時の明治、慶應、早稲田、同志社のレベルも低いものでなく、1932年1月31日に花園ラグビー場で行われたカナダ代表と日本代表のテストマッチでも日本がカナダを一蹴している(38対5)。(※でも、カナダ代表と日本の個別チームの試合は、カナダ代表の5戦5勝)。1934年にオーストラリアの大学選抜チームが来日したが、慶應と早稲田に連敗した。カナダ代表戦もオーストラリア大学選抜戦も、2万人を超える観衆を集めていて、そのまま戦争も何もなく成長していれば、日本ラグビーは、もっと早く、世界的な強豪国になっていたかもしれない。兎に角戦争は、多くの可能性を潰した。
秩父宮雍仁親王と香山蕃
戦後、日本ラグビーは、何と言っても「スポーツの宮様」と称され、多くの競技団体の名誉総裁に就かれた秩父宮雍仁親王に支えられた。ラグビーだけに肩入れ為されたわけでもないけれど、兎に角ラグビーが大好きだった雍仁親王殿下は、日本ラグビー協会がまだ非公式団体だった設立間もない頃(1926年~1928年)に、会長職に就かれていた。その後、高木喜寛氏が正式に会長となるわけですが、非公認の初代会長ということになる。銀之助が会長職を固辞したのも、「(殿下の後では)畏れ多い」という理由でもあったかも。

戦後、日本ラグビーの復興に尽力して、東京ラグビー場建設を推進した第三代会長香山蕃(京大ララグビー部を全国制覇に導いた人)は、特に雍仁親王と懇意であったと云われ、 1953年初頭に雍仁親王が薨去なされると、東京ラグビー場を「秩父宮ラグビー場」に改名するよう強く要請してそれは実現する。そして2年後の1955年。香山は第三代会長に就任する。実は、日本代表が花園でカナダ代表を破って世界デビューを果たした時の監督が香山蕃である。1969年まで会長職を務め、高校ラグビーや大学ラグビーの再構築を成した香山氏は、最後の年の5月3日に他界。もっと色々なことをやりたかったのでしょうけど、以降、現在の第14代森重隆会長に至る迄、多くの関係者の働きがあって、ようやく、戦前の日本ラグビー界が目指した「世界」に近付いた。いや、近付いたは失礼なので、到達したって言い換えよう。
森会長
森重隆会長がまだ福岡高校のラグビー部員として花園でプレイしていた頃は、不肖私はまだラグビーをよく知らない”子ども”だったけど、明治大学で活躍されていた頃(早明戦など)はうっすらと覚えている。そして、新日鉄釜石の黄金期に日本を代表するトライゲッターとして輝いた。福岡のラグビー大好き小僧にとっては憧れの選手だった。でも、まだ若くして引退。博多に戻って実家(森硝子)を継ぐってニュースが飛び交った時、「えェっ!」って福岡でも多くの人が驚いた。物凄く機敏で、天才的なプレイで魅了した人だったけど、ラグビー自体を辞めちゃうのか?と残念だったけど、福岡高校の監督になって復活。そしてその後は九州協会や日本ラグビー協会の要職を歴任して今年から会長に。
今、ようやく日本ラグビーが長い眠りから目を覚ました状態。今後、このまま隆盛を極めることを強く望むけど、そんな楽な話じゃないだろう。本当に、平尾誠二さんがこの世にいないのが残念だけど、森会長体制で何とか良い方向へ導いて頂きたく、今回はこれで終わり。当タイトルも、もうそろそろ終われるかな。
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