ラグビーの歴史アレコレ(6)~ラグビーと民族問題~

フットボール史

南半球へのラグビー伝播

ニュージーランドでの始まり

オールブラックス ハカの様子

ニュージーランドにラグビーが伝わったのは1860年代後半。スコットランド人(エジンバラ出身)のC.J.モンロという人によって伝えられたと云われている。 これが、1895年のイングランドRFU分裂後で、もしも13人制の方が先に伝わっていたら、オールブラックスがこれ程の人気と実力を博したかどうか 。そもそも、「オールブラックス」という呼称が生まれていたかどうかも分からない。「順序」というのは運命を左右する。因みに、日本で最初にラグビーが行われたのは1874年と記録され、英国人の船員達が行った試合で日本人は出場していないらしい。日本にも、13人制の方が先に伝わっていたら、今とはまるで違う状況だったろうけど、日本には、(けっして強国とは言えない状況ながら)15人制のラグビーユニオンの方が先で良かったと個人的にはそのように思っている。日本のラグビー史は、また別の機会に書くとして・・・

1870年5月に、ニュージーランド南島(ニュージーランドは、北島と南島の二島をメインとする列島国)の北端都市ネルソンで、地元男子校(ネルソン・カレッジ)とネルソンクラブが公式戦を行ったのが、ニュージーランドラグビーの本格的な始まりと言われる。因みに、ネルソン・カレッジは、ノーベル化学賞受賞者やニュージーランド首相を輩出するなど、ニュージーランドきってのエリート校で、ラグビー部は1870年に創部された、ニュージーランド最古の伝統を誇る。ということで、創部記念の試合だったのかもしれない。

1882年に、オーストラリアのサザンラグビー協会(現在のニューサウスウェールズ州ラグビー協会)が遠征で訪れたのが、ニュージーランドにとっての初の対外試合。前回触れたことですが、ニューサウスウェールズ州は、1907年に13人制(ラグビーリーグ)のフットボール・リーグを開始しているけれど、この時の遠征試合はまだ13人制のルールが確立出来ていない筈なので、当然15人制だった。

ライオンズ派遣

1886年に創設されたIRFB(国際ラグビーフットボール評議会:本部はアイルランドの首都ダブリン)は、ラグビーユニオンの普及の為に選抜チームを編成して、定期的に南半球への遠征を行うようになる。恐らく最初は「ラグビーを教えてあげるよ」程度のものだったが、1910年からは明らかにそうじゃなくなった。つまり、南半球のララグビーには逆に見習うべきものが多々あり、真剣勝負を挑むようになる。選抜チームの愛称は「ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ」。4年に一度選抜されるライオンズですが、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド へ順次遠征している。次の遠征は2021年の南アフリカ、その次は2025年のオーストラリア、その次は2029年のニュージーランド。合同チームライオンズと、各単独ユニオンチーム(アイルランド代表、スコットランド代表、ウェールズ代表、イングランド代表)のどっちが強いのか分からないけれど、3ヶ国(南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド)に於ける対ライオンズ戦の人気は物凄いらしい。ラグビーユニオンのワールドカップに匹敵する盛り上がりを見せるとも云われる。

オールブラックスvsライオンズ 2017 

因みに、2017年に行われたニュージーランド遠征でのライオンズ対オールブラックスの3連戦は1勝1敗1分。(※2017年には頑張ったけど、それまで長い間、ライオンズはオールブラックスに勝利していなかった。)12年に1回しか見られない試合なので、当事国の人々でもチケットを手に入れるのは大変かもしれない。2017年の場合は、オールブラックスとのテストマッチは3試合ですが、州代表選抜、オークランドブルーズ、 クルセイダーズ、 ハイランダーズ、 マオリ・オールブラックス、 チーフス、 ハリケーンズとそれぞれ1試合ずつ行っている。日本にも遠征してくれるようにならないかな・・・無理だろうけど。

「ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ」としての活動は1910年からですが、1888年から始まった遠征は、1910年の遠征までは「ブリテン諸島代表チーム」で、イングランド、ウェールズ、スコットランドから選抜された選手達だった。アイルランドのレベルが低かったわけではなく、恐らくは独立問題で対立期にあり、政治的判断なども加わってアイルランドの選手は入ってなかったのだと思う。 そして、1919年から2年間続いたアイルランド独立戦争の激闘とその後の北アイルランドを巡る幾つかの局面では、もしかすると、ラグビー選手同士でも銃口を向き合わせたかもしれない。ラグビーでは統一チーム「ライオンズ」を結成出来る彼ら(イングランド人・ウェールズ人・スコットランド人とアイルランド人)でも、北アイルランドの帰属問題、スコットランド独立問題など、政治的対立から逃れられないでいる。政治フィールドでは、「ノーサイド」の笛はいつまでも聴こえて来ない。が、兎に角4ユニオン所属選手達は、ライオンズに選出されることをこの上ない名誉としている。

プロ化への流れ

オールブラックス誕生による影響

1903年。ニュージーランド初の代表チームが結成され、 8月15日に初のテストマッチ、対オーストラリア代表選が行われる。この試合を22対3で勝利した代表チームは、1905年から1906年にかけて、北半球(ブリテン諸島、フランス、アメリカ合衆国)へ長期遠征。テストマッチ5試合(4勝1敗)を含めて合計35試合を戦い、34勝1敗という圧倒的な強さを見せつけて、欧米人から「オールブラックス」と名付けられ称賛を浴びた。この時の最初のオールブラックスメンバー27名は「オリジナル・オールブラックス」として語り継がれ、伝説化している。

オールブラックス(ニュージーランド代表)のあまりの強さに引き換えて、イングランドやスコットランド、ウェールズ、フランスなどでは、母国代表やクラブの惨敗ぶりに対して「アマチュアとしての限界」を感じたのだと思う。それが1906年のイングランドに於けるラグビーリーグ(13人制)誕生とプロ化の流れを決定付けた。アマチュア主義に拘るユニオン(15人制)では、最早、地球の裏側(南半球)に対して勝ち目がない。という諦めの境地がラグビーリーグ誕生を誘因した?と、言えなくもない。

勝てない(ラグビーの)母国

ところが、ラグビーリーグでは、これもまた後発のオーストラリアが圧倒的な力を持ち、イングランドは全く勝てなくなった。日本人が、柔道で他国に負ける程のショックを受けた筈だが、オーストラリアや南アフリカ、そしてニュージーランドの主力は英国系移民の子孫達。という事に救いがあり、寧ろ、競技人口のすそ野が広まったことをイギリスは歓迎した(苦虫を噛み潰した顔して、歓迎するしか無かった?)。が、南アフリカでは黒人選手が、ニュージーランドではマオリ族が代表チームに入るようになり、移民国家オーストラリアでも、英国系以外の人達も代表入りするようになるなど、ラグビー(フットボール)は、白人だけのものではなくなった。特に、アソシエーション・フットボール(=サッカー)は全世界に愛されるスポーツとなり、プロ契約を結ぶことが当たり前のスポーツ分野になっている。

話を戻すと、ニュージーランド代表チーム(オールブラックス)の圧倒的な力に対抗し得たのは、南アフリカ代表(スプリングボクス)とオーストラリア代表(ワラビーズ)。
南アフリカ代表は、1891年に、遠征して来たブリテン諸島代表と初めての国際試合を行い、結果は0対4だったが大健闘した。
1899年に、オーストラリア代表チーム(ワラビーズ)が結成され、同じくブリテン諸島代表と対戦。何とこの試合、ワラビーズは世界デビュー戦だったにも関わらず9対8で勝利している。
●そして上述したようにニュージーランドに代表チームが結成されると、南半球三ヶ国は強力なライバル関係となりしのぎを削り合うようになった。

試合体力と日程問題

ラグビーは、野球のように週に何試合も出来ない。ワールドカップでも週1回の試合が標準で、中3日や中4日の日程が組まれると相当にきつい。それで、ワールドカップ予選プールの5チーム制が常に議論に上がる。今大会も、スコットランドが(日本に対して)嫌がらせのように(連日)日程問題や台風問題を持ち出しているが、4チーム制にするとラグビー(特にラグビーユニオン)のすそ野の広がりを目指す事に反することになるし、6チーム制にすると大量得点差を生みワールドカップという重みが薄くなり陳腐化する恐れがある。痛し痒し。世界各国のレベルが上がれば良いけど、簡単な話では無い。サッカーは、どんなにチーム力の差があってもせいぜい15対0程度。これがラグビーだと、15トライ15コンバージョン成功だけでも105対0。印象が・・・

話を戻すと、労働(本業の仕事)関係上のみならず、競技のハードさからも、週一回土曜日のみ行うという事に対しては、選手達もクラブも納得していた。各球技場のナイター設備が充実するまでは、当然、夕刻までに試合を終わらねばならないが、ラグビーは40分ハーフ。14時から始めれば余裕で夕刻には終わり、15時から始めても明るい内に試合を終えられる。土曜の午前中が仕事でも、午後はラグビーの試合に間に合う。でも、そういうギリギリのタイムスケジュールで競技を続けても、レベル向上は見込めないように思える。だから「それでプロと言えるのか?」というレベルだったのかもしれない。

思い起こせば日本のラグビーも、学生対社会人で日本一を争うようになった1963年から1975年まで、社会人と大学の力は拮抗していた。1976年以降は社会人が圧倒するようになり、1996年を最後に、社会人優勝チーム対大学優勝チームで日本一を争う事は終わった。恐らくイングランドでも、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の力が、寧ろ、クラブチーム(企業チーム)を凌駕していたかもしれない。仕事とラグビーの両立は難しかったでしょう。だから、「プロ化する意味がない」と見做されていたかもしれない。

イングランド・ラグビーユニオンの人気の程度

各クラブの観客動員数が、毎主催試合毎に数万人見込めたり、莫大な放送権収入が入るならまだしも、通常の試合なら、今でも平均数千人というのがイングランドのラグビーユニオンの実状。日本のトップリーグよりは動員出来ているにせよ、サッカーのようなわけにはいかない。しかも、放送面でも、サッカーのプレミアリーグ、クリケット、13人制のラグビーリーグなどが人気で、ラグビーユニオンがプロ化へ動いても苦戦するのは目に見えていた。協会側は、アマチュア主義に拘ったと言うより、プロ化するにはリスクが有り過ぎて二の足を踏んでいたと言う方が正解かもしれない。しかも、絶対的な強さを誇り、その強さが世界中から尊敬される程ならプロ化も有り得ただろうけど、南半球勢の方が相対的に強かった。

イングランドにはスポーツ選択肢が多いが、プロを目指すなら、ラグビーユニオンは視界外に置かれる。

オーストラリア・ラグビーユニオンの人気の程度

ニュージーランドや南アフリカ、そしてオーストラリアでも、ユニオン(15人制ラグビー)のプロ化は遅かった。それぞれ事情は違うが、大まかにはRFUがプロ化を許容していなかったので、南半球でもそれに従った格好。
ニュージーランドはラグビー(ユニオンとリーグとセブンズの順だが、それぞれ人気は高い)とクリケットが圧倒している。
南アフリカはサッカーとラグビー(ユニオン=>セブンズ=>リーグ)、クリケット。最近は、野球も人気が出ているらしい。

オーストラリアは多くのスポーツが選択肢としてある。 オーストラリアのラグビーユニオン代表(ワラビーズ)は世界的強豪だが、オーストラリア球技の国内人気では、 オーストラリアン・フットボール(オージーボール)、ラグビーリーグ、サッカー、クリケット、ネットボール、ラグビーユニオン・・・みたいな順番で人気は低い方だ。対外試合の時には客を集められるが、国内試合ではあまり観客数は見込めない。

パプア・ニューギニア

因みに、13人制(ラグビーリーグ)では全世界的にも抜きん出た強さを誇る”オーストラリア・ラグビー界”には、パプア・ニューギニアから大勢の選手が参加している。パプア・ニューギニアは、ユニオンではまるで目立たない(ランキング80位台)が、国技としているリーグでは上位強豪国でワールドカップの常連。しかも、前回は共催ながらもワールドカップ開催経験国となった。そして・・・
なんと、オージーボールでは、その競技の母国であるオーストラリアを圧倒して、世界ナンバーワンの地位にある。パプア・ニューギニア恐るべし。
オージーボールとパプア・ニューギニアの話は面白そうだけど、長くなり過ぎたので次回にでも。

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