ラグビーの歴史アレコレ(5)~アマチュアリズムとプロ意識~

フットボール史

ワールドラグビー

4回目の冒頭で少しだけ触れた事ですが、ラグビーユニオン(15人制ラグビー)を統括するワールドラグビー本部は、アイルランド共和国の首都ダブリンに置かれている。

スコットランドとの”国際試合”を行ったラグビー・フットボール・ユニオン(RFU/1871年にロンドンに開設)では、ラグビーユニオンの統一ルールや運営厳格化を管理・主導する国際的統括組織の必要性を訴え、それは自分達RFUが負うべき使命だと自認していた。つまり、ラグビーを含むフットボール発祥の地、聖地である南部イングランドで決める事こそがルールブックであり、他地域はそれに従って然るべきというわけだ。

北部イングランドのジレンマ

そもそも初の国際試合は、裕福な地域(南部イングランド)が、余裕のない地域(北部イングランド)で亀裂が生じ、後者が、スコットランドが始めた職業化(プロ化)に賛同してスコットランドでのプレイを望んだ事に因る(参照記事「ラグビーの進化の原点は、労働問題にあった」)。これに対して、「ラグビーは職業としてではなく、崇高な精神=アマチュア主義の下に行われるべき純粋なスポーツ」という考え方に固執する南部イングランドが、職業化の考え方を翻意させようとした試合とも言える。しかし、「 ラグビーはもっと自由で寛容であるべきだ。 お金を出してでも観戦したい人がいるということは、お金を得るに値するプレイヤーがいるということだ。15人制でもいいし、7人制でもいい。もっと新しいスタイルのラグビーが出来てもいい」というスコットランドの考え方にこそイングランド北部は同調していった。でも、イングランドのラグビー選手である以上は、RFUの方針に従うしかない。

イングランド北部の選手達にとって最も心配する点は、スコットランドのクラブチームとプロ契約しても、選手生活を終えた後の仕事(収入)がどうなるのか?ということ。家族の生活や将来の事を考えると、安易にスコットランドへ行く事も出来ない。しかも、怪我が付き物のラグビーですから、下手すれば、一試合で現役引退だって有り得る。

試合に出たい人は土曜日に仕事を休む。仕事を休むから収入が減る。収入が減った中でもトレーニング費や食費などは落とせない。それを我慢すると選手としての力を維持出来ずに試合に出られない・・・。北部イングランドの選手達にとってはジレンマが続く歳月だった。

IRFB誕生と、イングランド協会の南北分裂

北部イングランドのラグビー選手達の苦悩を知っていたスコットランドは、どうにかして彼ら(北部イングランド)と一緒にラグビーが出来ないものかと、他地域(アイルランドとウェールズ)のラグビー協会と協議を重ねて、ラグビーをもっと広めることによって選手のプロフェッショナル化をサポートする方向を模索。そして1886年に設立されたのが国際ラグビーフットボール評議会(IRFB)で、その本部はダブリンに置かれた。この頃のアイルランドはまだ連合王国の一員だったので、ウェールズ協会もスコットランド協会も特に本部の場所に関しては反対しなかったのでしょう。そもそも、もっと多くの国にラグビーを広めることを目的とした組織なので、アイルランドが既に別の国であったにせよ、ダブリンが本部になった可能性はある。

RFU中心の国際統括組織を考えていたイングランド南部のラグビーエリート達にとって、IRFB設立の動きは青天の霹靂だったかもしれない。それでイングランドは参加を拒んだ。しかし、たとえラグビー発祥国がイングランドだったにせよ、既に、ブリテン島とアイルランド島にはラグビーが浸透していて、イングランド製のルールブックを必要としていない。イングランドがラグビーの先生でなければならない理由もなく、IRFB側は、(イングランドが)「不参加でも構わないよ」という姿勢を見せたのかもしれない。そして恐らく、北部イングランドは、RFUとは一線を画す独自組織を立ち上げる考えも持っていた。実際に、1895年の北部イングランドはRFUを脱退して、新団体「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン(NRFU)」を設立する。

IRFBには、ラグビー選手の職業化を容認したり、独自のラグビー(7人制など)を推進するスコットランドや、反イングランドの姿勢にあったアイルランド、同じように、相手がイングランドになると闘志を燃やして来るウェールズという3協会が顔を揃えていて、政治経済とはちょっと離れたスポーツ組織の中では、イングランドは”やり込められる側”となる。それが分かっているから加盟したくもなかったでしょうけど、イングランドとしても国際試合は行いたい。それで、1890年にイングランド協会もIRFB会員となる。多分、スコットランド辺りから、北部イングランド選手に対する休業補償問題を解決するようになど、さんざんプレッシャーをかけられ続けたのでしょうけどRFUはそれだけは頑として拒んだ。

エリート達のラグビー

南部イングランドのラグビークラブには、オックスフォードやケンブリッジなどエリート大学でラグビー選手だった人達が多く所属していて、彼らは本業(仕事)収入も高く、ラグビーを職業として行うことなど考えていなかった。中には、ラグビーが本業であればと望む人もあったろうけど、本業収入が高く安定していた彼らにとってのラグビーは、「金(生活)の為」に行うものではなく、「人生を豊かにする為」であったり「崇高な精神を維持する為」であったり「(南部)イングランド人としての誇りの為」等々であった。

「金は要らない。誇りと名誉の為だ!」という南部イングランドのラグビー=RFUは、アマチュア主義を強める一方となる。労働者階級(北部イングランド)と一緒にラグビーをすること自体を毛嫌いする選手もいたかもしれない。自分達の名誉と誇りの為のラグビーなので、南部イングランドでのラグビー観戦は無料だったとも云われる。そして、スタジアム側にも、試合日のグラウンドの無償提供を求めた。逆に、観戦料を要求するスタジアムでの試合は一切行わなかったらしい。此処まで徹底して「“高貴な”アマチュアである事」に固執していたのだから、労働者階級である北部イングランドのラグビー選手達が”正当な”対価(試合日報酬=休業補償)を求めても、イングランドのラグビーファンからもなかなか理解されない。

南部イングランドの選手も仕事は休めない。が、週休二日制の彼らは土曜日の試合を満喫する。(※休業補償を認めないRFUだから、南部の選手達も土曜以外の試合は出来ない)。一方、週に一日、日曜日にしか仕事を休めな北部イングランドの選手達の我慢は限界に達した。休業補償が無ければ生活が圧迫されるが、試合は土曜日のみ。宗教上の関係から、日曜日はスポーツが禁じられていた当時、その日程は変更不可能。

南部イングランドの選手達でも土曜に働いていた選手はいたが、工場法(19世紀に成立)では、一定の労働者に対して土曜日に半日の休みが与えられていて、南部のラグビー選手達は、その「一定の労働者」に該当した。しかし、炭鉱労働者や工場労働者などが殆どだった北部の選手は、「一定の労働者」にもなれず、週6日労働に従事するしかない。不公平の上に成り立っていたアマチュア・ラグビーだったわけだ。

ラグビーリーグの誕生

そして遂に、 北部イングランドの選手達とラグビークラブはRFUから脱退して独自組織を結成する(1895年8月29日)。 NRFUには、1910年頃までに、200以上のクラブが参加した(逆に言えば、200以上のクラブが、RFUを脱退したことになる)。

職業化(プロ化)を目指すことを目的として発足したNRFUは、選手を怪我から守る為のルール改正に動き、ラインアウト、ラック、モールなどの廃止を決定。そして、1898年にプロフェッショナリズムが導入される。更に、1906年には13人制に変更される(ラグビーリーグの誕生)。プロ契約と言っても、本業は別に持つ選手達なので、ラグビー以上に仕事に支障を来すような怪我の可能性を極力排除したルールになった。けれども、逆にランニング・ラグビー、パス・ラグビーの魅力は増えて、観客を魅了するプレイが随所に見られるようにもなった。

オーストラリアでのラグビーリーグ誕生

オーストラリアには、早くからラグビーユニオン(15人制ラグビー)が伝わていたが、イングランド同様の労働問題を抱えていた。北部イングランドの事情が伝わったオーストラリアの多くのラグビー選手とクラブは、13人制ラグビーに着眼。そして、1907年8月8日に、シドニーに於いて、ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグが創設された。ラグビーリーグ(13人制ラグビー)は、ニューサウスウェールズ州とクイーンズランド州の主要なフットボールコードとなり、ラグビーユニオンに取って代わる。

オーストラリアの15人制ラグビーチームは世界的強豪だ。しかし、それ以上に13人制で無類の強さを誇っていることは前回に書いた通り。

オーストラリアでもイングランドでも、ラグビーリーグの重要な試合には10万人を超える観衆が訪れるようになり、興行面でラグビーユニオンを圧倒。13人制やオージー・ボールなど、稼げるラグビーがあるのに、いつまでもアマチュア主義に固執しているラグビーユニオンでは、選手も加盟クラブも離れていくばかりになる。早い話、イングランドRFUに対して、意識改革が強く求められる事になる。

1954年。ラグビー界初のワールドカップである「ラグビーリーグワールドカップ」が開催された。つまり、15人制ラグビーよりも、13人制ラグビーが世界のラグビーをリードする展開となりつつあった。タックル回数の変更など、客が納得する(興奮する)ルール改正を続けたラグビーリーグは、1967年に、初めて、日曜日の国際試合を行うに至る。今では当たり前に行われているかのような日曜日の試合だけど、上述して来たような歴史経緯により、日曜日には試合をしない事が暗黙の了解事項でもあった。

15人制ラグビーを救ったニュージーランド

日本では、ラグビー=15人制しか知られていない時期が長かった為、殆どの人は世界のラグビー事情を知らなかったが、15人制ラグビーは、本当に危機的状況にあったわけです。大怪我するリスクがありながらアマチュアであることに拘る。学業や仕事が最優先で、余裕のある人しかプレイ(選手)を続けられない。何事も律儀で綺麗ごと大好きの日本では、アマチュア・ラグビーが当然だったので何も疑問に感じていなかったでしょうけど、海外の選手達やクラブはそうではない。

アマチュアに拘ったという点に於いては、いち早くラグビーリーグを導入したフランスでも、15人制の組織ではアマチュアであることに固執して、わざわざ「国際アマチュア・ラグビー連盟(FIRA)」発起の主要メンバーとなった(1934年)。

プロ化してもいいんじゃないか?と考えていた(イングランド以外の)IRFB加盟国にとって、FIRAの誕生は、プロ化を阻む大きな障壁となった。が、フランスがへそを曲げると、15人制ラグビーは本当に廃れてしまう。そういう危機だった。IRFBとFIRAは並立してラグビーユニオンを支えるが、スター選手が13人制へ流出する一方となりなかなか盛り上がらない。が、ラグビーユニオンには切り札があった。それが、スプリングボクス(南アフリカ代表)、ワラビーズ(オーストラリア代表)、そしてオールブラックス(ニュージーランド代表)。特に、オールブラックスこそが15人制ラグビーの救世主となった。世界中何処へ行っても客を呼べる、魅了出来る彼らは、彼ら見たさの人達を15人制のファンとして繫ぎ止めた。

でも、話が長くなり過ぎて、次回へ。

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