ゼノビアの怯え
E・ギボンの空想が込められていると思うのですが、エメサでの尋問時に於けるゼノビアの態度は、東方女王として眩いばかりだった輝きが、もう二度と戻ることは無いと思わせるもの。

面前に引据えられたゼノビアに対し、ローマ皇帝アウレリアヌスは自ら激しく詰問した。そして、これまでのローマの歴代皇帝に対して敵対の刃を向けた事を責められたゼノビアは、ギボンの言葉を借りると(以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用 => )「かのアウレオルス、またガリエヌスのごとき人物を、帝として仰ぐことは、とうてい堪えられなかっただけのこと。 征服者として、また君主として承認しますのは、貴帝ただ一人だけ」と。(<=引用終わり)そのような答えを返した。(※ガリエヌスは、皇帝ガッリエヌス。アウレオルスは、ガッリエヌス麾下の将軍の事だと思われる。)
要するに、「貴方様には敵いません。貴方様になら、従うことが出来ます。」と、ゼノビアがアウレリアヌスに媚びたということをギボンは主張しているわけですが、ギボンは、このゼノビアの態度を以下のように表現している。(以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用=>)だが、所詮は女の剛さ、それにはたいてい無理がある。それだけに、一貫して毅然、などという例はまず稀といえる。ゼノビアの勇もまた、裁きの座で崩れた。即刻処刑を、と叫ぶ兵たちの怒声に、さすがの彼女も恐怖に慄え、日ごろ鑑として口にしていたクレオパトラ女王、最後のあの絶望的高貴さすら忘れてしまった。そして事実恥ずべきことに、その名声と同志たちとを代償に、いわば生を願ったことになる。(<=引用終わり)
どのようにひれ伏して赦しの言葉を並べたか、演技の涙は何粒か、等々、あとは読者各自が想像してくれとするギボンの文章をずっと羅列した方が分かり易いのですが、あとは不肖私が続けます。
挿絵のどの人物がゼノビアなのか判断に迷いますが、裸の男達はゼノビアの側近達。一人は、カッシウス・ロンギヌスかもしれない。
ギボンの書いた通りのゼノビアなら、「全ては側近達が仕組み、自分は担がれた神輿に過ぎない。だからどうか赦して下さい。二度と逆らいませんし、何処へでもついて行きます。賢明なるご裁断を・・・」みたいなことを必死で訴え、命乞いを図ったことになる。ゼノビアに恋焦がれた世の男性諸氏、また憧れた女性陣の心を、奈落の底に沈めるようなもの。ですが、ギボンが史料として読んだ書には、それに近いものが遺されていたのでしょう。ゼノビアを褒め称えたギボンもまた、最後にプライドを捨てて命乞いをしたゼノビアの態度(ギボンが思い浮かべた態度だが)に対して、殴り書きをするような感じで文章を書いたかもしれない。女王の輝きは、もう二度と輝くことは無い。
賢哲ロンギヌスの最期
ゼノビアの側近達の名前は殆ど知られていない。ところが、ロンギヌスだけは現代でも知られている。これもまたギボンが書いた通りになった(ギボンが書いたから現代人も知っている?)。その部分はまた、ギボンの文章を借ります。( 以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用=>)「例の哲学者ロンギヌスも、やはり彼女の恐怖心がつくり上げた夥しい、しかもおそらくは無辜の犠牲者の一人だった。ただ、さすがに彼の高名は裏切った女王はもとより、断罪した暴帝のそれをも史上はるかにこえて、後生長く生きつづけるはず。精神も学問も、この無学無筆、ただ勇猛だけが売物の武人帝を動かすことはできなかったのだ。だが結局それらはこの哲人の魂を、美しい調和にまで高めることには見事役立ったらしい。(<=以上、引用終わり)
ソクラテスを崇敬していたと云われるロンギヌスは、元来、気の好い陽気な哲学者、且つ修辞学者だった。213年に生まれたという事なので、パルミラが陥落した273年には60歳になる。人生の多くの時間をアテネで過ごしたロンギヌスは、自らの強い意志で、ゼノビアを最高の指導者として”育てる”べくパルミラへやって来た。そして、ゼノビアが女王として君臨したパルミラに「東方帝国」の名を冠させる多大な功績を遺した。半分ほどの年齢だったゼノビアを、時には娘のように愛し、ゼノビアに史書を書かせた師でもあった。しかし、最後はゼノビアとパルミラ国家が行った”ローマに対する”罪を全て引き受ける羽目になる。が、“シリアのソクラテス”とも称されたロンギヌスは、その愛称に相応しい堅実さと陽気さで処刑宣告を受け入れた。ここでまたギボンの表現を借りると「彼(ロンギヌス)は、ただの一言不服を訴えるでもなく、むしろ不幸な女王を憐れむとともに、悲歎の友人たちには慰めの言葉すら与えながら、静かに死刑執行人のあとに従ったという。」
パルミラ破壊
ゼノビアは、身代わりとなったロンギヌスによって処刑を免れたが、ローマへ連行される事になった。既に、金品財宝の殆どを奪われ、更に精神的支柱を奪われたパルミラ市民はローマを憎悪。アウレリアヌス親征軍がローマへの帰途に着き、ボスポラス海峡を越えてトラキアへ入った頃に、パルミラ市民は暴動を起こし、新しい知事と守備隊は鏖殺(皆殺し)された。一度は恭順の意を示したパルミラ市民が叛旗を翻した報にアウレリアヌスは怒り心頭に発し、即座に反転。パルミラの再制圧へ向かった。またしても通過点になったアンティオキアでは「すわ、何事!」と人々は恐怖したが、アンティオキアも攻撃対象だったかどうかは『ローマ帝国衰亡史』では分からない。兎も角、ローマ軍の怒りが凄まじかったことだけは読み取れる。そりゃそうでしょうね。やっと我が家へ帰って平穏な暮らしへ無事戻れると思っていたのに、また戦争だ。皇帝も怒っていたが、何より兵士達が荒れていた。逆らえば、血祭の対象とされる。アンティオキア市民は、パルミラに同情を寄せても、加勢する選択肢は無かった。全ての都市国家はアンティオキア同様で、孤立無援のパルミラは運命を受け入れる以外にない。それをゼノビアも見せ付けられたかどうかは分からない。が、権力を失って何も出来ない元女王がその場を見ていたのなら、”辛い”では済まない状態だったでしょうけど。でも何となくですが、ゼノビアが奪還される可能性がゼロではないので、彼女は、そのまま先にローマへ連行されたと考えられる。そして、後に、彼女の祖国を破壊し尽くしてローマへ凱旋して来る皇帝軍を出迎えさせられる、という屈辱を味わった。
パルミラに対してアウレリアヌス帝が命じた攻撃内容は、アウレリアヌス帝の直筆書状一通がギボンの時代までは遺されていて、ギボンはそれを読んだと記している。それに依ると、(以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用=>)このときの恐るべき処刑は、当然それに値する叛乱将兵のみならず、老人、子供、農民たちにまで及んだことを、公然と述べている。(<=以上、引用終わり)
この書状内容は、『皇帝列伝』第26巻31節に書かれてあるが、これは偽作であるという注意書きも『ローマ帝国衰亡史』には記されている。う~ん、それならば、ギボンは老人、子供、農民にまで及んだ処刑を信じていない?ちょっと、内容的に読み取り方が難しい。が、商業と学芸と、そして類稀なる女王ゼノビアが君臨したパルミラの本拠は、見る影もない寒村と化した。そして、E・ギボンが、1773年に『ローマ帝国衰亡史』を書き始めた頃も(完成は1776年頃)、蘇ることは無かったし、現在も、パルミラは古代遺跡の残骸だけが遺るのみ。
皇帝凱旋式とその後のゼノビア
パルミラを破壊したローマ軍(皇帝親征軍)は、帰途のついでにアレクサンドリアで皇帝僭称し暴動を主導したフィルムスを粛清するべくエジプトへ立ち寄った。フィルムスは、オダエナトゥスやゼノビアと懇意にしていた人物という事ですが、架空の人物とも云われる。親パルミラ派が少なくなかったエジプトを完全に掌握する為に、ローマがでっち上げた事かもしれないが、あっさり完敗したフィルムスは、アウレリアヌス帝によって死刑に処されたという事だ。架空の人物なので触れる必要も無かったけど・・・
アジアとエジプトを完全制圧(掌握)したアウレリアヌスは、意気揚々とローマに凱旋。ギボン曰く「ローマ建国このかた、アウレリアヌス帝ほど天晴れ凱旋行事にふさわしい将軍はいなかったし、また事実それは未曽有の盛儀と誇りをもって執り行われた。」そして、まだ夜の引明け時に始まり、夕方第9時になっても終わらず・・・という、その日の壮大な凱旋式の様子を、まるでタイムマシンに乗ってつぶさに見て来たかのように『ローマ帝国衰亡史』には、約5ページに渡って書かれている。多分、異例の内容ですが、その日の凱旋式は、それほどのページを割いてでも書くに値する歴史に刻まれる凱旋式だったという事でしょう。
そして、他の皇帝達、将軍達の凱旋式同様に、ローマの捕虜となった敵将達が見世物として行軍させられたが、その日の捕虜行軍の”主役”は只者ではなかった。一人は、ガリア帝国の僭称皇帝テトリクス(と、その家族達)。そしてパルミラの女王ゼノビア。テトリクスのことは別の機会に触れることになるでしょうし、この凱旋式もその時に詳しく触れるでしょうし、この日のゼノビアにのみ光を当てると・・・
===以下、『ローマ帝国衰亡史』より引用===
ゼノビアは、美しい肢体に黄金の手枷足枷をはめられ、頸にも同じく黄金の重い鎖を巻かれ、奴隷の一人がやっとこれを支えていた。全身それこそ宝石ずくめ、重味に耐えかねほとんど倒れんばかりの有様だった。かつてはみずから戦車に駕してローマ市城門を潜ることを夢想していた彼女も、いまはその壮麗な戦車の前をトボトボ徒歩で歩まされる始末。
===以上、引用終わり===
嘗て、無数の敗北者達が凱旋式の見世物として歩かされ、凱旋行列がカピトリヌス丘を登り終えると、あとは直ちに獄中で絞首、或いは斬首というのが通例。ところがこの日の主役両名に対しては違った。共に、これまでの凱旋式に類を見ない特別な凱旋式に相応しい、格別な、敬うべき敗者として扱われる。その事が事前に伝えられていたのかどうかは分からない。が、テトリクスの一家には、元の位階、財産をそのまま返され、カエリウス丘上に宏壮な邸館を新築、竣工することさえ許された。このような厚遇を受けて感謝しない敵はいないでしょう。テトリクスとアウレリアヌスは無二の親友ともなったとされる。そして・・・
ゼノビアは、首都から約20マイル離れたティブルに洒落た別荘を与えられ、ローマ市民としての名誉は回復された。また、相手は明かされていないものの、元老院の有力議員が再婚相手となり、ゼノビアの娘達はそれぞれ名家に嫁ぐことが出来たと云われる。彼女の血筋には、それが真実ならば皇后も誕生する(東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の皇后テオドラは、ゼノビアから数えて9代目と云われている)。更に東ローマ帝国のヘラクレイオス王朝や西ゴートの王族へと血は受け継がれていったとされる。ゼノビア自身が、アウレリアヌス帝よりも数段長生きしたと云われるし、血筋も遥かに拡大した。「オリエント世界屈指の女傑」の血流は、今、何処をどのように流れているのだろうか?
ということで、何の感動もなくお終いです。今回(最終回)は、特にエドワード・ギボンの言葉に頼りっ放しになりました。けれども、ゼノビアについてこれだけ深く触れている作家は、ギボンを置いて他にいないと思っていますのでアシカラズ。
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