パルミラの女王ゼノビアと帝政ローマの戦い(4)~パルミラの落日~

妖しいメロン
パルミラ遺跡群

ユネスコに世界遺産登録されたパルミラは、パルミラ王国とローマ帝国支配期の”文化”を遺す都市遺跡。偏った表現になるけれど、ローマと共に歩んだ歴史期があったからパルミラは世界的に価値がある国家だった。もっと言えば、パルミラはローマを敵視するべきではなかったし、前にも私見を述べた通り、パルミラこそが第二のローマ、或いは新ローマになれた。(つまり、コンスタンティノポリス=イスタンブールの姿は、本来は、パルミラが果たすべきものだった。)

初回に、パルミラ(=シュメール語でTadmor)の位置図は載せましたが、シリア砂漠の中にあり、現在のシリア首都ダマスカスから北東約230キロ。砂漠の山脈アブ・ルジマインの南麓、東西を二つの涸れ川ワジが走るオアシス。ゼノビアは、砂漠の薔薇と称された美女王ですが、オアシス都市パルミラには、本当にバラが咲いていたとも言われる。けれどパルミラは、雪崩れ込んだローマ兵によって略奪の限りを尽くされ荒廃した。更に現代に入っては、ISによって遺跡群が破壊された。惜しい限りです。此処には、ローマを彷彿させる、いや、それ以上のローマ(文化)があったのに・・・。さて本題へ。

エメサ会戦

ローマ皇帝アウレリアヌスは、ウァバッラトゥスが東方皇帝を僭称する事も、母ゼノビアが東方女王を宣言した事も容認する考えを持っていた。そのように帝政ローマ史研究の第一人者であるE・ギボンは書いている。が、恐らく、パルミラがエジプトを手に入れた時に看過出来なくなった。ゼノビアにとっては、祖先と仰ぐクレオパトラ(7世)の国で、自分こそがエジプトの支配者に相応しいと信じて疑わなかった。しかし、ローマにとってもエジプトは重要な位置づけにある。それこそ、クレオパトラ7世とは、カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル)やマルクス・アントニウスが深い因縁を持ち、ローマと共に在るエジプトを築き上げて来た。もしかすると、アウレリアヌスは、クレオパトラの後裔を自認するゼノビア(蘇ったクレオパトラ?)を手に入れ、カエサルを凌ぐ歴史的ローマ人になろうとしたのかもしれないが・・・

エメサは、パルミラ本国(都市国家パルミラ=Tadmor)から真っ直ぐ西へ約150キロ(くらい?)。現在は、ホムス県の県都ホムスと称される。パルミラ王国は、本国(=都市国家パルミラ)以外に、ローマの属州シリアの首都的都市だったエメサに対してパルミラの首都化を図ったと考えられ、これも、ローマ側が看過出来ない要因の一つだと思う。そして、アンティオキア会戦に匹敵する大激戦がエメサで繰り返された(273年)。

アンティオキア近郊で大敗北を喫したゼノビアは、一旦、パルミラへ退いた。そして、アウレリアヌスも無理に追撃せずにエメサへ入り、一時の休息を求めた。恐らく、ローマとパルミラは、停戦協定か何か、交渉に入ったと考えられるがそれはよく分からない。兎に角、アウレリアヌスとすれば降伏の使者を待っていたのに、エメサへ来たのは、血走った眼をしたパルミラの(傷ついた)攻撃軍だった。勿論、その先頭には女王ゼノビアの姿があった。
しかし、 平生は上ドナウ地方に常駐していて、アレマンニ戦争など特別な戦争でその強さを証明済だった老練且つ最強のローマ側の軍団は、アンティオキア近郊会戦で、既にパルミラ軍の戦法を見切っていた。それまで負け続けたローマ軍は何だったのか?と思わせる程、恐らく、完勝だったローマ軍に、ウァバッラトゥスは捕らえられた。その後、ローマへの連行途中かそれ以前にウァバッラトゥスは殺された。一般的には、 ウァバッラトゥスの最期は戦死として扱われている。

エメサを攻囲したものの、此処でもまた大敗北したパルミラ軍は大きく傷つき、ゼノビアの権威は失墜した。最早、パルミラを支持する周辺国家はなく、多くの同盟者は雪崩を打つようにローマへ寝返った。

新兵力の編成は不可能と知ったゼノビアに残された最後の砦はパルミラ本国だけとなった。ゼノビアが心底欲したエジプトは、アウレリアヌス麾下の将軍では最も勇猛とされたマルクス・アウレリウス・プロブス(アウレリアヌス帝の次の次の皇帝と成る)が派遣されて、エジプトは属州エジプトとしてローマの手の内に戻った。 このプロブス(属州パンノニア出身)こそが少年兵として叩き上げの軍人で早くから軍団長となり、ローマ・ドナウ軍団を率いて(ローマから見て)蛮族との戦いに勝利を続けた。(※プロブスの天敵と言えばマルクス・アンニウス・フロリアヌスだが、フロリアヌスは、アウレリアヌスの次の皇帝に成るが僅か3ヶ月で暗殺された。)そして、パルミラとの戦いの勝利もプロブスあってのこと。

パルミラ陥落

逆転勝利・・・寸前

首都パルミラの城壁内に後退せざるを得なかったゼノビアは、それでも強力な抗戦準備を残らず整えると、不屈の女傑らしく、「治世の最後はそのまま生命の終わりとなる」という旨を公然と宣し籠城戦へ突入する。

尤も、パルミラ軍はただ指を銜えてローマの進軍を見ていたわけではない。ゲリラ戦法でやられたパルミラは、自分達に理の在る砂漠で数々の奇襲に打って出た。大軍団の時の重装備とは打って変わって、ゲリラ戦に転じたアラブ人達はローマ軍を遥かに凌駕する速さを見せ、ローマ軍の追撃など簡単に躱した。その迅速さを大会戦では機能させ切れなかったのが何とも不思議な話。ローマ軍は、パルミラを攻囲するまでに相当傷ついたが、それでも何とか、女王ゼノビアが待ち構える城壁を取り囲んだ。そして、両軍の最後の死闘が開始される。アウレリアヌスも、軍人皇帝の誇りを賭けて前面に立ったが、投げ槍を食らって九死に一生を得る始末。この時、アウレリアヌスは元老院宛ての親書を送った(恐らく、援軍要請)。その内容が、パルミラ軍をよく語っているので引用します。

====『ローマ帝国衰亡史』より、以下引用(アウレリアヌス帝の親書)====
「余(アウレリアヌス)がいま、一女性を敵として闘っているこの戦いを、ローマ人は軽蔑をもって口にするが、それはただ彼等がゼノビアなる人物の性格と実力を知らぬ故である。石、矢、その他彼女の擁する数々の飛道具類は、あげて数うるにたえぬばかり。至るところ、城壁には、必ず二、三基の弩機バリスタが装置されあるもののごとく、これら兵器より発射される火箭かせんが雨下するのである。膺懲ようちょうへの怖れが、彼女に自棄の勇を与えているものと見える。しかし余は、いまもなおローマ守護の神々を信ずる。これまでも余のあらゆる拳に対し、つねに加護を垂れ給う神々なるが故である」
====以上、引用終わり====

だが、元老院からの回答を待つことなく、アウレリアヌス帝は戦争の早期終結、つまり講和を提案した。その条件として・・・
女王ゼノビアには名誉ある退位を(つまり、退位後の名誉と身分を保障)
パルミラ市民には旧来の特権承認(つまり、今までと何ら変わらない経済活動の保障)
ローマ(引いては皇帝アウレリアヌス)を信用するか否かだが、条件としては悪くない。この講和申入れは、パルミラが、後世にまで輝きを保つ最後の機会だった。が、E・ギボン曰く、 女王ゼノビアは、その講和提案に対して、侮辱を伴う拒否回答を送り付けた。どのような侮辱の言葉が伴われたのかは、衰亡史には書かれていないので私にその言葉を書ける筈がない。

勝算は崩れた

ゼノビアは、ただ意地を張って講和を拒否したわけではなかった。一つは、砂漠の中の滞陣が長引けば、やがてローマは糧食難に陥り、再び砂漠を横断して撤収する他はないだろうという目論見。もう一つは、東方の諸王による援軍期待。取り分け、最も自然な盟邦たるペルシアは、過去の経緯はどうあれ救援に起ってくれるものと信じていた。

この二つの希望は、満更ではない。可能性としては十分にあった話で、現に、嘗てゼノビアから攻撃され首都陥落寸前にまで追い込まれたペルシア・サーサーン朝のシャープール1世は、ペルシア軍を援軍に向かわせた。ところが、それを命じてすぐにシャープ―ル1世は急死する。これによってペルシア国内が混乱し、パルミラ救済軍は著しく士気を低下させ、何と、ローマ軍に買収された。更に、ローマに靡いたシリア各地から、アウレリアヌス帝の陣へ補給食糧などが続々届き、糧食難に陥るどころか宴さえ見せ付けた。その宴に、エジプトを制覇した将軍プロブスも加わった。

自分の読みが全て崩れた事を悟ったゼノビアですが、投降の呼び掛けに応じずに脱出を図った。しかし、その事はすぐに見抜かれて追っ手に捕らえられ、アウレリアヌス帝の足もとへ引きずり出された。

パルミラの全破壊は食い止められたが、略奪は当然のように許され、宝飾を施された武具、駱駝、馬、馬車、夥しい金銀財宝、宝石類、全て、戦利品としてローマ軍が”受け取った”。 パルミラ市民は自分達の女王も失い、ただ泣き崩れるしかなかった。

何もかも失くしたパルミラは、裸同然の市民達が亡霊のように漂う異様な光景となり、アウレリアヌス帝は、僅か6百名ほどの弓射兵だけを守備隊として残して、そそくさとエメサへの帰途に着いた。手錠と鎖で繋がれたゼノビアとその側近達は、尋問が待っているエメサ迄、砂漠の道を延々と歩かされたかもしれない。

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