
母子の確執(3)・・・過信の戒め
投資か融資か?
突然他界した父ハインリヒの莫大な遺産を分与されたアルトゥル・ショーペンハウアーは、商売人への道と訣別した。が、代々の血を受け継いで商才はあったし、専門教育や就職先での経験等々により、既に、商魂は目覚めていた。自分自身は学問の道へ歩むことを決めたものの、商売、それの延長線上にある経営、そして経済の面白さには惹かれていて、関りを持ち続ける事を望む。
それ(商業との関わりの在り方)を相談した相手は母ヨハンナ・ショーペンハウアーだった。ヨハンナの実家は、グダニスク(=ダンツィヒ)の名門貴族。その町には、解散した旧ショーペンハウアー商会を引き継いだ形のムール商会がある。恐らく、実家を介してのことでしょうけど、ヨハンナは、ムール商会に対して、創業家(ショーペンハウアー家)の一員であるアルトゥルの希望を”受け入れる”ことを要求した。
アルトゥルの望みは、雇用されたり経営陣に加わることではなく「投資」。資金を提供する代わりに見返り(利益)を求めるものだった。ムール商会側としてもそれは願ったりの話。何せ、元々の資本の殆どはヨハンナが持って行ったのだから経営資金はいくらでも欲しかった。アルトゥルの申し出(投資)を手放しで受けるのだが、ヨハンナは投資ではなく「融資」に拘った。株式を買う形ではなく、また銀行資産として預けるわけでもなく(ムール商会の主業は銀行・金融業務)、あくまでもムール商会の事業に対する融資。つまり、ショーペンハウアー家が資本参加を望んだものでなく、ムール商会側が事業資金の融資を求めたという形で話をまとめる。これだと、貸付金に対する利息は入って来るが、株式配当のような莫大な利益は入って来ない。が、母は不満の息子に対して恐らく「商売人ではなく、学者になるのでは?二兎を追うとろくな結果は生まない」というような事を諭したのではないかな?結果として、後々それでアルトゥルは救われる事になる。
(※1819年にムール商会は倒産。大慌てしたアルトゥルは、仲違い状態の母を頼り、ヨハンナは、人脈をフル活用してアルトゥルの融資資金全額を回収してみせる。息子は母の偉大さに感謝すべきだ。)
大学進学
自身が分与された遺産の多くをムール商会に融資した(銀行に預けたようなものでもある)アルトゥルは、手元に残した資金(それでも多額)を学資金として、ずっと望んでいたギムナジウム入学を果たす(1807年6月/19歳時)。19歳で中高教育から受け直すという事だから、学問を志す覚悟は相当なものだったのでしょう。最初はゴータ(現ドイツ・チューリンゲン州の都市)のギムナジウムに入学して、その年の暮れに、母と妹との同居を希望してヴァイマルのギムナジウムに転校。しかし、此処で、憧れの女優カロリーネ・ヤーゲマンと出会ってしまって学業は疎かになりサロンに入り浸る。それをヨハンナから叱咤されて「出て行く!」と(自分の方が悪いのだが)アルトゥルは癇癪を起こす。
女優との恋も興醒めしたアルトゥルは、21歳でゲッティンゲン大学の医学部に入学(そこまでは前回も書きましたが)。しかし、医学の道ではない哲学にのめり込む。
ドイツの哲学・思想の全盛期
当時のドイツ(プロイセン)は、批判哲学の大家と称されるイマヌエル・カント(1724年生~1804年没)の思想に大きく支配されていた。いわゆる”カント哲学”の追従派には、ヨハン・ゴットリープ・フィテヒ(1762年生~1814年没)、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770年生~1831年没)、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(1775年生~1854年没)など、当時のドイツ圏を代表する錚々たる哲学者が名を連ね、彼らの論派は総じて「ドイツ観念論」と称される。
ドイツ観念論者の殆どがカントに傾倒しているので、当然、カントが最も”軽蔑していた”選民思想”の最たる集団=ユダヤ教徒とは対極にあった。すると当然ながら、ドイツ観念論を真っ向否定する”宗教哲学思想”を唱える人達も登場する。カント哲学を真っ向否定する急先鋒として知られていたのが、ドイツ系ユダヤ教徒のフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743年生~1819年没)。 カントを批判し論駁を繰り返したヤコービは、時には”非哲学者”を自称していたが、哲学者を論破する宗教家気取りだったのか?という悪意文章はよくないね。ヤコービは、兎に角、文才(それは美才とも称された)に長け、この人を論破するのは相当至難の業だった。このヤコービと最も通じ合っていたのがゲーテ。ゲーテほどではないにせよ、当時のドイツ文壇界の高名な詩人ヨハン・ゲオルク・ヤコービを兄に持っていたヤコービは、兄ヨハンを介して6歳年下だったけどゲーテに敬愛の情を示していた。その事に因り、ヤコービの論派を「ゲーテ派」と呼ぶ人達もあるらしいが、それは間違い。ゲーテは誰にも肩入れしていない事も確かで、特定思想に縛られてなどいないからこそ「ゲーテの時代」という言葉も生まれている。
ヤコービが敬愛していたのは、ドイツ啓蒙思想の大家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729年生~1781年生)や、ヨハン・ゲオルク・ハーマン(1730年生~1788年没)であり、同志的立場にあったのが、クリストフ・マルティン・ヴィーラント(1733年生~1813年没)、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744年生~1803年没)、フリードリヒ・フォン・シラー(1759年生~1805年没)らである。
啓蒙思想の大家レッシングの他界を呼び水にして起きたのが『スピノザ論争』で、この論争でカントらと対立したのがヤコーブ。この時代のドイツの哲学界や文学界には錚々たるメンバーがいて、彼らはドイツを始めヨーロッパ諸国の為政者達に多大な(政治思想的)影響を及ぼした。ということは、この時代の哲論・思想論を知る事こそが、避戦論を世に染み渡らせる重要な鍵を得る事になるので、彼らについては、今後、再三触れていきます。
母子の確執(4)・・・思想的対立
医学部に進学したという事は、アルトゥルには、医師になる選択肢が十分にあったという事なのでしょうけど、ゲッティンゲン大学の哲学教授G・E・シュルツェの講義に触れたことでアルトゥルの道は決まった。シュルツェに師事する事を強く希望して哲学部へ転部する(1810年/22歳時)。此処までは、母ヨハンナが希望した事でもあったのだと推察出来る。ヨハンナは、息子(アルトゥル)が、自分や、自分が最も敬愛したシラーや、サロンの上客だったゲーテらと同じ文筆家になることを楽しみにしていたのだと思う。だからこそ、恋に逆上せ上って学業を疎かにしようとしていた時に強く戒めた。
ヨハンナと生前のシラーの関係は分からないが、シラー家の隣にサロンを建てるなど深く敬愛していたのは間違いない。ということは、ヨハンナの思想はヤコービに近い?(※ヨハンナはユダヤ人ではないし、寧ろ、自由人だけれど)。父ハインリヒは徹底した自由主義者で宗教とは無縁。ヨハンナは夫ハインリヒとは反りが合わなかったが自由を謳歌した。そういう両親に育ったアルトゥルは、その反動だったのかニヒリストに近い。いや、ニヒリストそのものだったとも思われる。なのでアルトゥルは思想的にフィテヒに近い。
アルトゥルが哲学に興味を持ったのは、一回り違うシェリングに強く惹かれた事がきっかけだとされる。そして、シェリングが発表する書物を読み耽る事が多かったが、恩師シュルツェ教授は、プラトンとカントを学ぶことを強く忠告する。温故知新。やっぱり、古きを知ってこそ新しき思想の何たるかを深く理解出来るという事ですね。 素直にそれに従ったアルトゥルは、プラトン哲学や新プラトン思想やそしてカント哲学にのめり込み、カントの後継者とも目されたフィテヒに傾倒。それらの素晴らしさをヨハンナに伝えたりもしていたのでしょう。でも・・・
ヨハンナは、もう少し違う息子の姿(ドイツ観念論などに縛られない自由論者像)を期待していて、早めの軌道修正を謀った?それで懇意にしていたヴィーラントを介して、息子をヴァイマルに帰郷させる。高名なヴィーラントから「会いたいので帰っておいで」とか声を掛けられたら断る理由もない。アルトゥルは、1811年の復活祭休暇を利用して母の許へ帰郷する。が、此処で、文学論か哲学論か思想論か分からないけれど、母と息子は大喧嘩になる。母と子の考え方は真っ向対立して、アルトゥルは(認められない事に)激しく憤りゲッティンゲンに戻る。そして、これが引き金になってますますカント哲学に没頭。遂には、フィテヒが教鞭を振るっていたベルリン大学の哲学部へ移る。
フィテヒの直弟子となったアルトゥルは、本格的に哲学者への道を歩み始める。けれど、そこそこ売れる本は出していたので知る人ぞ知る存在とはなっていったけど、アルトゥルが本当に有名になるのは後年になってから。・・・でも、長くなり過ぎたので次回へ?
いや、前回に次が最終回というニュアンスで〆ていたので当タイトルはこれでお終い。これ以降は、アルトゥル・ショーペンハウアーの著作物の言葉を中心にして、哲学者アルトゥルを書いてみようと思います。
コメント