
アルトゥル・ショーペンハウアー誕生期の東欧情勢
偉人・賢人の多くに影響を与えたことで知られる哲人アルトゥル・ショーペンハウアー(1788年2月22日:ポーランド・グダニスク生~1860年9月21日:ドイツ・フランクフルト没)は、「我々の幸福の90%は健康に依存している」という名言を残しました。
その程度の言葉は、人類の長い歴史の中で数10億人くらいの名もなき庶民が口にしたと思いますが(不肖私でさえも言えそうな言葉)、ショーペンハウアーのような賢才がそれを言えば名言として語り継がれる事になる。
ポーランド・リトアニア共和国は、隆盛期には「黄金の自由」を標榜して東欧に覇を唱えていたが、ショーペンハウアーがこの世に生を受けた18世紀末頃は衰退期にあり、1795年に終焉してポーランドとリトアニアとベラルーシに分離していく。という話は何れ詳しく書きますが(東欧・北欧が大好きなので)、嘗てのグダニスクは、ポメレリア公国の首都で自由都市国家の象徴だった。
ポメレリア地方は、ポメラニアとも呼ばれ、健康の為に、犬の散歩を欠かさないという日本の愛犬家にもファンが多いポメラニアンの産地として知られている。
グダニスクは、ポーランド継承戦争の一端として行われた1734年の激しい攻城戦(=ダンツィヒ攻囲戦)の舞台となり、それ以降は占領したロシア軍やフランス軍が出入りを繰り返すなどして自由な独立性は損なわれ荒廃して行く。ショーペンハウアーが5歳になった頃には、プロイセンに占領・併合され、都市名もダンツィヒに変わった。が、この頃に戦争を嫌ったハインリヒに連れられて、一家は自由都市ハンブルクへ移住した。
(※グダニスク=ダンツィヒは、その後、ナポレオンによって解放され自由都市グダニスクとして復活するが、ナポレオン失脚後にはプロイセンに再併合され、現在はポーランド国家の都市に戻った。)
ショーペンハウアー家の夫婦関係・・・
父ハインリヒ・ショーペンハウアーは「ショーペンハウア商会」という代々続いていた名門貿易企業を経営する裕福な商人。母ヨハンナは、グダニスクの名家トロージナ家を出自としていて、アルトゥル少年は生活面に於いては何不自由なく・・・と言いたいところだが、ハンブルクへの移住(居住権購入)に際してはほぼ全財産を投入しなければならなかったようで、一家は一文無し状態となった。が、それでも自由を手に入れたことで家族は前を向いた・・・
なーんていう美談で始まるのなら何の興味も持たないが、グダニスクを代表する名門の令嬢だったヨハンナは、生まれ育った町をこよなく愛していたけれど、其処を守る為に武器を取るのではなく、逆に武器を放り投げて逃げ出して、金で「命を買った」夫につくづく嫌気が差した。
ハインリヒには、十分にやり直せる見込み(勝算)があってハンブルク移住を決断したのだろうけど、20歳以上も年下の妻からは、情けない男としか見られなくなっていくなど夫婦間の愛情は急速に冷めていった。
(という話もちょっと大袈裟で、会社という大資産を持っていたから、プライベート資産を少し失ったくらいではビクともしていなかったし、生活苦は起きていないのも事実らしい。但し、妻から愛されていなかった話は真実で、しかも、妻ヨハンナは、息子アルトゥルへの愛情も薄かった。)
アルトゥル・ショーペンハウアー少年期
ハインリヒは、息子(アルトゥル)が9歳になる頃、同じ貿易商としての道を歩ませようと語学教育を受けられる環境での寄宿生活を勧めるが、ハインリヒは幼いながらも強く抵抗。学者になりたいと言い出した。これに対して、父は、「世界旅行出来るぞ~」と少年の心を燻り、息子の説得に成功。アルトゥルは、フランス北西部のルアーヴルに留学。ハインリヒの貿易商仲間であったグレゴアール・ブレジメールの家で2年間を過ごす事になる。この家に、同い年で無二の親友となったアンティーム・ブレジメールがいた事でアルトゥルは2年間を快適に過ごし、フランス語や英語に堪能な少年となった。
約束の2年が経ち、ハンブルクへ戻った息子が流暢にフランス語を扱うことには夫婦共に大喜びしたけれど、アルトゥル少年の学者への夢はまだ何も冷めていなかったのだが・・・
遁世主義の目覚め
アルトゥルは、ハンブルクの”普通の”ギムナジウム(日本で言えば、中高一貫校?)への進学を望んだけれど、父ハインリヒは、半ば強引に商人育成の私塾へ進学させた。その交換条件は、3ヶ月にも及んだチェコ・プラハへの旅行だった。尤も、ハインリヒの商用に伴ったものだが、アルトゥルは、知らない世界に触れることが大好きな少年だった(多くの少年少女はそうでしょうけど)。
15歳になったアルトゥルは、更に、会社を継ぐための商業勉強に専念する交換条件として、2年間、(家族と)海外周遊へ向かい、ヨーロッパ内の多くの国を見て回った。尤も、これもハインリヒの商用旅行に伴っただけの事だが、そのおかげで、上流階級との交流や劇場、美術館訪問などで実践的知識拡大の機会に恵まれた。
が、商売人の心得として「何でも見ておけ」という父の言葉に従った結果、華やかな人達より、寧ろ、路上で物を売る市井の人々の言動や、(日本風に言えば)庶民居酒屋での旅人たちの労苦話や、絞首刑場面にも触れるなどして、経済(生活)格差による社会底辺の貧窮と苦しみにこそ目が向いた。その頃のアルトゥルの旅行記や日記には、厭世願望を匂わせるような文章が少なくないらしい。やがては哲学者となり、斜め側から人間を見て幸福を論じるなど遁世主義とも称されたアルトゥル・ショーペンハウアーの独特の”人間観”は、この少年期の旅行によって培われたと云われている。
ヨーロッパ大旅行(オランダ、イギリス、ベルギーフランス、オーストリア、シュレージェン、プロイセン)は1804年の暮れに終わり、ハンブルクに戻ったアルトゥルは、翌年早春に、父との約束通りに当時のハンブルク・イェニッシュ商会に入社する。日本風に言えば丁稚奉公が始まるのだが、イェニッシュは、当所ハンブルクでは最も優れた実業家で、且つ、自由都市国家ハンブルク政府の参事(閣僚)。此処で息子(アルトゥル)が成功して出世を果たせば、ショーペンハウア商会にとってに大きな利となる。ハインリヒはアルトゥルに対して大きな期待を寄せていた。ところが・・・
突然の別離とヨハンナ・ショーペンハウアーの輝き
翌年の1806年4月に、突然、ハインリヒが橋から落下して他界する。これが、単に事故死なのか、自殺なのか、或いは他殺なのか、真実は何も分かっていない。
大黒柱を失ったショーペンハウア商会は解散に追い込まれ、当時39歳だった妻ヨハンナは・・・何事も無かったかのように、当時9歳の娘(=アルトゥルの唯一の妹アデーレ)を連れてハンブルクを出てドイツ・ヴァイマルへ移住した。
因みに、ヴァイマルは日本ではワイマール憲法が制定された都市として知られていて、1919年から1933年までのドイツは、ヴァイマル共和国と呼ばれていた。
ヴァイマルの東隣約20キロくらいの場所に、ドイツでも最古に近い学術都市イェーナが在る。1806年、つまりヨハンナがヴァイマルへ移住した年に、皇帝ナポレオン・ボナパルト率いる当時のフランス帝国軍とフリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍がイェーナで会戦する(イェーナ・アウエルシュタットの戦い)。
ヨハンナは、自分が移住したプロイセンがフランスに蹂躙されていく様を、自分と行動を共にせずにハンブルクに残った息子アルトゥルへ送った手紙に綴ったが、当時18歳のアルトゥルからの返事は、母や妹を心配する言葉はなく、哲学的な誌的散文に等しき内容。アルトゥルは、それでも母を心配して返事を書いたつもりだったかもしれないが、母子が互いを思いやる内容とは程遠い手紙だった。が・・・
アルトゥルからヨハンナへの手紙には、父が他界し、ショーペンハウアー商会も無くなった状況の中で、自分はこのまま商人の道を進んで良いものか?という苦悩も綴られていた。ヨハンナだったら、息子の苦悩など「知った事じゃない」と突き放しそうなところだが、意外にも、母から息子へは、(迷わずに)「学問の道」へ向かう事を勧める内容の返事が綴られた。それはそうと・・・
そもそも、ヨハンナがヴァイマルを目指した理由は、そこに新たな彼氏が住んでいたからだと云われている。その関係は、夫の死よりも以前から続いていたとされ、その事と夫の死も疑われないでもないけれど真相は闇の中。
名門貴族を出自とするヨハンナは、ヴァイマルではヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラーの隣に居(自宅兼サロン)を構えた。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとの親交でも知られるシラーこそ、ヨハンナの愛人説があるけれどどうかな?それ(ヨハンナ・ショーペンハウアの愛人)が誰かも謎のまま。
1766年7月9日生まれのヨハンナに対し、1759年11月10日生まれのシラーは7歳年上。有り得ない関係じゃない。また、ヨハンナが特に懇意にしたゲーテは1749年8月28日生。ゲーテは、ヨハンナの尊敬の対象でもあり、ゲーテの妻クリスティアーネとは大親友となるのでゲーテは有り得ないかな。でも、ゲーテが最も信頼した女性としてヨハンナの名が挙げられている。
ヨハンナは、敬愛したシラー家の隣に住まうけど、シラー自身は、ヨハンナが移住して来る前年の1805年5月9日に45歳の若さで永眠している。ヨハンナは、どうしても亡きシラーの傍に暮らしたかったのでしょうけど、二人の関係は本当はどうだったのか・・・
ヨハンナの愛人と噂される人は一人や二人ではないが、兎に角、ヨハンナの(自宅兼)サロンには、連日、多くの客が訪れた。それは、彼女の文才を開花させる事となり、ヨハンナ・ショーペンハウアは、当時のドイツ文壇界の女流作家として華々しい活躍を見せていく事になる。
一回で書き上げるのがきつくなったので、当記事は次回へと続きます。
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