新・日本古代期怪説(3)~アズミ人(安曇人)の旅.3~

黎明期

シベリアを抜けて・・・

アズミ人の旅図、大陸=>北海道

上記図は、あまりにも手作り過ぎて「何これ?」って感じでしょうけど、取り敢えず、ハプログループD1a2である縄文人=日本人のご先祖様方が、インド北部を出て、キルギスを通過。バイカル湖東畔辺りで大きく二手に分かれる。
ヤクートルート
(1)中央シベリア高原方向へ北上し土着して、現代のヤクート人などになった人達。
(2) カムチャッカ方向へと東進を続け、やがて千島列島を発見する人達(更に、アナディール高原辺りでアラスカへ向かう人達が別れて行った可能性もある)。
ブリヤートルート
(3) アルダン高原南方やバイカル湖南畔付近に土着して 、現代のブリヤート人などになった人達。
(4) 更に東進し、アムール川を下り樺太を発見する人達。

樺太へ、千島へ

「千島廻りで入って来た北海道アイヌ」の祖

ヤクート人やブリヤート人など、日本人そっくりな人達がシベリア東部には少なくないことは前回までに既述しました。そして、ヤクートルートの(2)の人達は、千島列島を伝い北海道東部へ入って来て、いわゆる千島アイヌ族と呼ばれる人達となった。
と、言いたい処ですが、どうしても”千島”という言葉を入れるならば、「第一期千島アイヌ族」。何故”第一期”なのか。それは、遅くとも1世紀頃までには、”第一期”千島アイヌ族の全てが択捉島以南へ渡り、得撫島より北には誰も居なくなったと云われているから。なので厳密には、「千島廻りで入って来た北海道アイヌ」の祖という表現が正しいのでしょう。
そして3世紀頃に、再びカムチャッカから得撫島にかけて、新たなアイヌ族が登場する。3世紀以降千年以上は、カムチャッカから得撫島を居住域としたアイヌ人を指して「オホーツク文化人」と呼ばれる。
更に、15世紀以降に得撫島以北に侵入して来て、オホーツク文化人を駆逐して現在に至るアイヌ人が、再び「千島アイヌ族」と称されるが、第一期との区分けの為に、現在の得撫島以北に暮らすアイヌ人は「第二期千島アイヌ族」と呼びます(当BLOG限定)。

「樺太廻りで入って来た北海道アイヌ」の祖

樺太へ渡ったグループは、そこから北海道北部へ入って来た。いわゆる「樺太アイヌ族」と呼ばれる人達となり、そして、樺太アイヌ族を出自として宗谷岬辺りへ入って来た人達が、「樺太廻りで入って来た北海道アイヌ」の祖となった。

縄文人は、日本列島を北から南(東から西)へ向かった!

『サピエンス全史』を皮肉ってみる(笑)

千島と樺太、どちらのルートからの北海道(蝦夷)到達が先だったのか。それは何とも言えない。が、『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「人類がアラスカへ到達したのは今から約1万6千年前、人類が日本列島へ到達したのは今から約3万5千年前」と書いている。但し、ハラリ氏は、人類の台湾到達を約3万年前と書いています。日本列島の方が先で台湾が後という事は、日本への到達ルートと台湾への到達ルートはそれぞれ別?と捉えているのかもしれません。
多分ですけど、ハラリ氏の思考も、「最初の日本人は、いわゆる朝鮮半島から対馬経由で北部九州へ入って来た」というものかもしれません。(到達地点を明記されていないので分かりませんが、)もしもそういう考えでの到達年代記述であるのなら、納得いかない点が多数出て来る。当タイトルの1回目で書いた、「縄文人に類似する民族は、同じ時代の東アジアには存在していない。」という学説に対して大きく引っ掛かる。そして、この日本列島に於いては、「縄文人は、北(東)に侵入して、南(西)へ向かった」という事で無いと、各地に分布する遺跡年代との辻褄が合わないし、言葉の問題やその他様々なことが合点行かない。

尤も、ハラリ氏は日本に対する関心は薄いのかもしれない。日本の成長は西洋の物真似を一生懸命にやったおかげ、程度にしか見てらっしゃいませんからね(事実ではあっても、それだけじゃない。日本人だからこそそれが出来た)。関心が薄いと言うより、日本は原爆投下されるべくしてされたように書いてるし、日韓関係にわざわざ触れてちょっと日本を悪者的に書いてるし、まァ、あまり日本国家や日本人には好意的ではないようだ。しかし、ハラリ氏の日本人観はさて置き、『サピエンス全史』の多くの内容に対して、私は強い感銘を受けている。なので、折角、「人類は約3万5千年前に日本列島へ到達した」と記載してあるので、その到達地点を樺太ということにします。だって樺太は(少なくとも南樺太は)、明治政府が樹立する以前から「日本の領土」。それは当時の世界的大国であった帝政ロシアも認めていたこと。つまり樺太は、元々日本固有の領土だったのだから、3万5千年前に、私達日本人の祖先が到達した日本で別に間違っちゃない。ロシアも、日露戦争後には樺太全土を日本領と認めて明け渡してくれた(と、思っておこう)。同じように、全千島列島も日露戦争以前から日本固有の領土だった(一時期、樺太と交換して得たものではあるが、少なくとも、北方四島は交換で得たものでは無く固有領土)。要するに、オホーツクの海域は日本の海域だったし、我らと共通祖先を持つ人類は、キルギス~モンゴル~シベリアに今でも多く暮らしている。

北海道へやって来た!

アズミ人(安曇人)と言えども、最初は移動性狩猟・採集生活を営む民ですから、取り敢えず、たくさんの小動物がいて、木の実が豊富にある場所を転々としながら樺太内を移動し続けた。地図で見ても明らかですが、樺太は広大です。
約7万年くらい前、現代の私達のご先祖様達はキルギス辺りに屯していた。それから3万年以上もの時間を費やして樺太へ到達した。恐らく、現在ではネベリスコイ水道と名付けられたアムール異湾の南端辺りは陸続きだった可能性もあるし、これ位の水域は渡れる位の渡船術を身に着けていた可能性も十分ある。兎も角、樺太へ渡ったご先祖様達は、雄大な樺太の自然と共生しながら南下を続けた。そして、約2万年~2万5千年前、宗谷海峡を渡って稚内辺りへ達した(此処は何の根拠もない無理矢理話で済みませんけど)。という事で話を進めます。

本州に於ける縄文時代の始まりは紀元前1万5千年前頃と云われる。それまでに北海道生活から卒業して行くグループを誕生させないとなりませんから、樺太から北海道へ渡って来たのは2万年前頃~2万5千年前頃と勝手に先述したのですが、それから遅れること約7千年、千島から渡って来たグループが北海道東部へ到達した。しかし、その頃既に、樺太廻りで宗谷岬へ到達したグループは北海道移住の旅を十分に”満喫して”、一部のグループは、立待岬か白神岬か知らないけれど、津軽海峡の先へ渡ろうとしていた。
次回以降で詳しく書いて行きますが、先住者がいた場合、安曇人は其処を共生の場とせずに回避する。なので、千島廻りで後から入って来たグループは、北海道の西側、函館方面へ進出することは無い。つまり津軽海峡を越えて行った大方は、樺太廻りのルートで入って来た人達だと思う。

移動性狩猟・採集民として日本列島に辿り着いた安曇人は、各所で別れを繰り返しながら、”日本人”として深化して行く。
何度も何度も、何年も何十年も、獣と実りを求めながら同じ場所を踏み歩き進んだ”旅”のおかげで、道なき道は”街道”の基礎を成していく。獣道しかなかった列島は、人の往来が可能な”道”が縦横無尽に走る列島へと変化した。ご先祖様方に踏み締められた”道”があったおかげで、やがて、西から東への「神武の東征」が実現することになる。
(※日本国内の歴史上では、西から東へ攻め上がって成功することが極めて少ない。だからこそ、それが成功した時の日本では国家の形が大きく変わる。「神武の東征」の次に西から東へ向かって大成功したのは薩長土肥の明治維新。そこまで2千年以上も要した。次の国家的大変化も2千年後?小変化くらいは起こらないと・・・)

コメント

タイトルとURLをコピーしました