肥州肥前史話(1)

鎌倉幕府期

肥前の起こり

現在の九州は、古代期には筑紫島と呼ばれていた。『筑紫』という語は恐らく築四の変化。つまり、四面で構成されているから筑紫である。その四面とは、筑紫国・肥国・豊国・熊襲国であり、熊襲国が東征して近畿に新たな都を築いた時、筑紫島の四国は行政州化される。

初期段階に於いては、筑紫島の由来となった筑紫国を筑州、豊国は豊州、肥国は肥州、熊襲国は薩州。

二次段階で、筑州を前後に分け筑前筑後。豊州を前後に分け豊前豊後。肥州を前後に分け肥前肥後。薩州は三つに分離して薩摩大隅日向。これで、九つの行政区を総称した『九州』の呼び名が出来上がる。

九州には内海が幾つかあるが、その内の有明海を挟んで前後に分けられた肥州だが、肥後は現在の熊本県に相当し(やがて、古代熊襲の内、球磨地方が肥後に組み入れられる)、肥前は、壱岐と対馬を除く現在の長崎県と佐賀県を併せた領域に相当する。前段が長くなったが、この”物語”は、肥州肥前が主役である。

肥前は、他の九州諸州に比べて何の引けも取らないどころか、他州が羨むような豊かな国土を誇った。豊かな国土であった証というわけでもないが、江戸末期頃の肥前全体石高を見れば、佐賀藩35万7000石、小城藩7万3252石、鹿島藩2万石、蓮池藩5万2600石、大村藩2万7977石、唐津藩6万石、五島藩1万2600石、島原藩7万石、平戸藩6万1700石、平戸新田藩1万石の10藩と、対馬藩田代領1万1000石余と徳川幕府直轄の天領(長崎周辺)が置かれていた。その合計は明らかな数値で75万6129石、天領や1万石以下の見えない部分を入れたら80万石を優に超え、生産性の高さを物語る。

参考に過ぎないが・・・
●(肥州の片割れ)肥後を237年統治した細川藩は57万石。
●隣接する筑後は、約33万3000石でその内訳は・・・
・柳河藩10万9000石。
・三池藩1万4000石。久留米・有馬藩21万石。
●同じく筑前は、約57万3000石。その内訳は・・・
・福岡・黒田藩(黒田本家)47万3000石。
・秋月藩(秋月・黒田家)5万石。
・東蓮寺藩(直方・黒田家)4万石(直方藩と改まってからは1万石加増して5万石)。
※因みに、現在の北九州市に位置する当時の豊前小倉藩(小笠原藩)は15万石余。現在の豊前市辺りを有した小倉新田藩(=千束藩)は1万石。そして幕末最強藩の一つ薩摩藩(島津家)は、琉球の約9万5000石を除けば、80万4000石程だが、薩摩・大隅、更に奄美地方、そして日向の多くを実効支配した合算値である。

大型藩(黒田家、細川家、島津家など)が治めた州と中小が犇めく州を石高だけで比較する事に何の重要な意味などないが、肥州肥前が魅力ある豊かな土地柄であったことは数値として窺い知ることが出来る。それと海。北の玄界灘、西の東シナ海、南の有明海。方々が海に面している肥前には、地形特性を生かした集落が各地に出来た。それぞれの集落は豊富な水産物・地産物で潤うばかりでなく、潮流を利用した多くの交易ルートを独自に構築。しかも、大陸に近い。松浦党のように、傑出した戦闘能力を有する水軍(武士団)も誕生させたが、早くから異文化を取り入れて独自の生活様式が育まれた。何よりも、商売・交易を以て発展することを最優先していた肥前の民達は、他を圧して太るより、他を生かして利するという考え方が早くから根付いていたものと考える。故に、強力な統一支配者というものを必要としなかった。

統治の始まり

佐藤氏系龍造寺氏の興り

昔ゞ、肥前國佐賀郡に龍造寺という地名が興った(現在の、佐賀城公園北西部付近)。龍造寺というお寺さんでもあったのか、単にそういう地名を付けられたのか、等々の、地名の由来は知らない。

全国苗字ランキング第一位の『佐藤』の姓を最初に名乗ったという謂れを持つのは藤原公清(=佐藤公清)である。公清は、俵藤太こと藤原秀郷から数えて6代目の子孫。公清が佐藤を名乗った経緯は、左衛門尉を頂いたことに由来とか、佐渡守を拝命したからとか諸説あるが先を急ぐ。
保延5年(1139年)に生まれ嘉応2年に逝去したとされる鎮西八郎こと源為朝の遠征に従い、公清の子・佐藤左衛門尉秀清が(或る時)肥前に下る。秀清は、そのまま暫く肥前に居座ったが、秀清の子・佐藤季喜とその一族が初めて此の地(=龍造寺)に居住する事になり、氏を、佐藤から『龍造寺氏』と改めた(※因みに、季喜の兄である康清の嫡子である佐藤義清は、武士としての将来を嘱望されながらも出家。しかし、西行法師として大きな功績を残した。)。という事を国立国会図書館デジタルコレクションからは読み取れる。尤も、私メの読解力が無いので、龍造寺姓を名乗ったのが季喜その人なのか、関係者かは曖昧であることを先にお詫びしておきます。が、1100年代中頃から終わり頃にかけて、藤原秀郷の血脈が龍造寺姓を名乗り始めたということの信憑性はかなり高い(一説では、仁平年間=1151年~1153年とも云われる)。
以上、肥前・龍造寺氏は、姓の起源を12世紀半ば頃まで遡ることが可能な由緒ある家柄である。

龍造寺氏を名乗った頃は、俵藤太(藤原秀郷)、鎮西八郎為朝、藤原公清(佐藤公清)、更には西行法師などの名が十分通用していたであろうし、相応の”敬い”も受けていたに相違ない。そのままスムーズに時が流れていたなら、早々に、肥前守護職・龍造寺家が誕生していたかもしれない。が、龍造寺家が肥前を支配する迄には、家名の興りから数えて約400年もの時を必要とした。

武藤氏と近藤氏

武蔵国の藤原だからとか、武者所の藤原だからとか諸説あるが、『武藤』姓を名乗ったのも、藤原秀郷の血筋を出自とする一族ではないかという憶測がある。イマイチ出自があやふやだが、最初に武藤を名乗った人と見られているのが藤原景頼の子・藤原頼平。この頼平が武者所に出入りしていたのも、そして平知盛(平清盛の四男)の名代として武蔵国に在したのも確かな事。随って、武藤姓の発祥は藤原頼平の生存期(1100年代半ば頃~1100年代後期、或いは1200年代初頭辺り)と仮定しても大きな間違いではなさそうだ。景頼には、奥州藤原の祖となる藤原清衡の系列だったという説があることを付足して先へ。

武藤資頼(1160年生)は 、頼平の猶子である。なので、資頼と藤原秀郷に血脈があるかどうかは全く不明だが、資頼の青年期に源平合戦が勃発。その当時は平氏方で活躍していた資頼だったが、一の谷の戦で源頼朝軍に屈し投降。ここで資頼が呆気なく殺されていたらその後の日本史は大きく変わった。けっして言い過ぎではなく、その後の元寇や明治維新に於ける肥前・佐賀藩の役どころさえ違っていた可能性があるので、日本の現在の姿もきっと違う形だった。歴史とは不思議なものである。今の歴史は、資頼が処刑される事無く生き延びられたことに因る。というわけで・・・

大した地位の者でも無かったのかどうか(首を刎ねる価値もない)などは分からないが、資頼が命拾いした最大の理由は、当時の頼朝方の大番頭とも言える梶原景時の娘婿だった点が挙げられる。娘婿となったのが合戦の前か後かは定かではないが、事実として命拾いした資頼は、頼朝に服属を許されて御家人となる(父・頼平は、合戦前から御家人だった説もあり、赦され易い位置にあったようだ)。勿論、累代の御家人とは立場が違う末端御家人に過ぎないスタートだったろうけど、此処から資頼は、異例尽くめの大出世を果たす。その皮切りとなったのが奥州藤原攻め(1189年)。何らかの功を挙げた事は確かなようで、出羽にいかばかりかの所領を得ると、次は伊勢・志摩を巡検使として探索する(早い話、平家の落ち武者狩り)。

奥州合戦は兎も角、自らが平氏方として戦った過去を清算させられるような巡検使の業を敢然と成した資頼は幕府の信を得た。それも、相当な活躍があったと考えられる。そして九州へと派遣される。九州入りした後に与えられた役職かもしれないが、”職位”は巡検使とは比較にならない大役、鎮西奉行である。いきなりの出世故に、巡検使として「相当な活躍があった」としか考えられないのである。平氏の潜伏しそうな場所を平氏側で戦った者だからこそ探り易かったとか、色々な”活躍”推察は可能。

話ついでに、この時、資頼と共に鎮西奉行として九州入りすることになったのは、後に『大友氏』初代を名乗ることになる古庄能直であり、血の繋がりはないが資頼の従弟に当たる(武藤頼平の弟・古庄能成の息子が能直。但し、古庄能直はこの後に『近藤』姓を名乗り、能直も近藤能直と改まる)。資頼は、一回り歳下の能直(1172年生)に全幅の信頼を寄せていたと言われるが、資頼と能直は大活躍を見せて幕府から功績大との評価を得る。これに因り、近藤能直は豊後守護職に任ぜられ大友能直となる。そして武藤資頼は、北部九州の支配権を得たに等しい、豊前、筑前、肥前、壱岐、対馬という五国の守護職を任ぜられる。

少弐氏の興りと、龍造寺氏との上下関係

~勝手な推察~

今とは違い、当時は、血筋こそ大事とされた時代。藤原秀郷流の佐藤公清(藤原公清)を祖とすることが明確な龍造寺家は、(肥前に於いて)着実に勢力を伸ばしていた。肥前一国を掌中に治めることも夢幻の話じゃないところまで来ていた筈。ところが、(龍造寺家から見れば)実家の武藤家は兎も角として、猶子の資頼が(早い話、何処の馬の骨とも知れぬ者が)、視線の先にハッキリと見えていた肥前守護職の座をその寸でで”掠め取って行った”格好だ。あくまでも龍造寺側に立って見ればの物言いだが、なんとも突然のことで如何にも屈辱的である。だが、資頼に抗うということは、即ち、鎌倉幕府を敵に回すということを意味し、片側目線では「許し難い!」という思いを抱いても、此処は流石に我慢するしかない。此処に、肥前守護職・武藤資頼と家臣・龍造寺氏という立場が出来上がった。が、守護家とは言うものの、資頼の権力基盤は大宰府であり筑前に在った。龍造寺氏は、表面上は資頼を主君として仰いで見せただろうけど、絶対的服従姿勢にはなかったと思われる。
ダラダラと書いたけど、上述のことは全て「思われる」憶測に過ぎないことだと付記しておきます。

太宰少弐

大宰府は、地方行政機関として7世紀後半の筑前に置かれ、主に、北部九州の内政を(国の立場として)取り仕切る役目を帯びていた。が、其処へ左遷された菅原道真の恩讐の噂で都が混乱したり、藤原広嗣反乱の拠点となったりした為、当時の大和政権は、大宰府を廃し、行政事務方を担う筑前国府と軍事を担う鎮西府に分割。それに依り、大宰府を司る太宰大弐(九州行政のトップ)や太宰少弐(大弐に次ぐ立場)の地位も当初よりは軽くなった。それでも、九州の国人達にとって、大宰府は利用価値も高く大弐も少弐も仰ぐ対象である事に変わりなかった。

その後、紆余曲折あった後、大宰府は平清盛が自らの権威の象徴として太宰大弐の座を我が物とした時に、再び、行政の頂点として九州の国人達の上に君臨した。平氏の栄華を象徴する一つとなった大宰府だけど、源平合戦で大敗北を屈した平家縁の者達が九州各地へ逃げ延びる為の道筋となったとも云われる(つまり、手引きをした)。

平氏から権力の座を奪い取った源頼朝、引いては鎌倉幕府にとって、大宰府の正常化(清浄化とも言える)は急務であり、そこに平家落人の情報が秘められているのであれば、巡検使として評価を高めた武藤資頼を送り込むのは常套手段と言えよう。鎌倉幕府は朝廷に強く働きかけて、資頼が中枢情報を得やすいような立場を用意した。それに依り資頼は、それまでは公家の独占冠位だった筑前大宰府の大官職(次官)である”太宰少弐“に、一介の御家人としては初めてのケースとして異例の大抜擢を受けた(嘉禄2年:1226年)。これに大いに感激した資頼は職責に励み、筑後守にも任ぜられる。資頼以降、太宰少弐は世襲制となり、太宰少弐を継いだ嫡男・資能より『少弐氏』を名乗ることになる。

~三氏の縁~

然ししかしである。人のえにし、血のえにしとは、実に不思議なもの、不可思議なもの。龍造寺(佐藤系)と大友(近藤系)、そして少弐(武藤系)は、元を辿れば藤原秀郷の曾孫に当たる藤原文行に行き着く。更に、文行の父・藤原文脩(公脩)辺りが、いわゆる秀郷流藤氏(藤原氏)の祖と目される。姓が、”某藤”、”藤某”であるという現代人で家系図とか先祖が分からない場合は、大抵、秀郷・秀郷の子・孫・曾孫・玄孫辺りの墓参りに行けば事足りる・・・かもね?

三氏の関係は、下の図を参考にして下さい。拾い図なので名前が違う場合もあるでしょうけどあくまで「大まかに」知れる程度の参考にして下さい。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 少弐氏(武藤氏)系図及び龍造寺、大友の関係.png
武藤氏及び少弐氏の系譜と龍造寺・大友の関係

では、この先は次の機会に・・・

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