卓犖闊達(たくらくかったつ)/佐賀藩の色々

江戸幕府期
左から、色絵花鳥文六角壺~鍋島治茂~鍋島家紋~鍋島直正~アームストロング砲

鍋島治茂の改革

弘道館

幕末から明治期にかけての激動期。新しい世界を夢見た人達が日本各地に次から次と現れたが、肥前佐賀からも、この時代の歴史に名を刻む偉人・賢人が輩出された。その原動力となったのは、佐賀鍋島藩八代目藩主鍋島治茂なべしまはるしげの命によって設立された藩校「弘道館」(天明元年/1781年設立。現・佐賀西高校の前身)。

財政破綻

鍋島治茂は、第五代藩主・宗茂の七男として延享2年(1745年)に生まれ、宝暦13年(1763年)に、支藩の肥前鹿島藩の養子に出され第7代鹿島藩主となる。2万石の小藩ながら鹿島藩主としてそつなくこなした治茂は、自身の兄で第七代佐賀藩主・ 重茂が嗣子なく38歳で薨去した後を受け、25歳で第八代佐賀藩主を継ぐ(明和7年/1770年)。当時の佐賀藩には、本家の他に三支藩(蓮池藩/小城藩/鹿島藩)があったが、本家と三支藩の仲は良好とは言えず、治茂が藩主を務めた鹿島藩も、一時は、石高を召し上げられて一旗本家に降格させられるなどしていた。本家に対して我を張り合う支藩は、財政難をギリギリまで我慢する傾向にあり、破たん寸前に追い込まれる事もあり、それは領民との軋轢に繋がり統治状態も良くなかったと云われる。

若くして第八代佐賀藩主となった治茂ですが、安永3年(1774年)の29歳時に、小城藩の財政難問題に巻き込まれる。この頃の小城藩主は、僅か8歳で第7代小城藩主となった鍋島直愈なおます(当時18歳)。
本家に生まれたとは言え、同じ支藩の藩主だった治茂への対抗心があったのか、直愈は、小城の事は小城で何とかするという思いで重要な経済的相談をしなかった。

当時の直愈は参勤交代で江戸に詰めていたが、安永3年2月の有栖川宮織仁親王の江戸下向に対して、幕府は、直愈に御馳走役を任ずる。宮様(勅使)下向の儀では、接待役の多大な出費負担が度々問題となっていたが、最も有名な事件と言えば”忠臣蔵“。浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷に及び、その後、お家取り潰しに遭った旧浅野家家臣が、大石内蔵助を中心にして吉良家に討ち入り仇討ちを成した事件は、それ以降の幕府の教訓となり、無理のない範囲の出費に抑えられた。とは言うものの地方小藩にとっては荷が重い。だから、主家へ相談するべきところを直愈は意地を張って自分で何とかしようとするものの無い袖は振れない。

必要経費9千両の内、直愈が用立てきれたのは2千両。残り7千両を幕府に対して拝借金として嘆願する始末。これが幕府側の逆鱗に触れた。取り潰しには至らなかったものの、「不届き者」の汚名を着せられた直愈は江戸城への出入り禁止(登城禁止)処分を受け、これが直愈だけでは済まずに治茂も同様に管理不行き届きとして、2ヶ月間の登城停止を命じられる。他藩に対しても、江戸庶民に対しても恥を晒す事になった。

三賢人の登用

治茂は、この時から抜本的な藩政改革の必要性を強く思い、翌・安永4年(1775年)に、英才として知られていた石井鶴山(延享元年生)を招へいする。治茂が30歳、鶴山は31歳。鶴山の他、古賀精里(寛延3年/1750年生)と長尾矢治馬(=長尾東郭)を加えた側近三名と共に、治茂は改革に着手する。当時、藩政改革に成功していた肥後熊本・細川藩に派遣された鶴山は、帰国すると「藩政改革成功の秘訣は人材の育成にあり」と報告。それを受けた治茂は、藩校(弘道館)の設立を指示。これが、後の明治維新に繋がったと言って言い過ぎではない。弘道館の初代校長には古賀精里が就任し、鶴山は教授として教鞭を振るうことに徹して、多くの才能を育成した。長尾矢治馬は、特に、財政改革に対して高く貢献し特に干拓事業に於ける数々の献策を提案~指図した。

鍋島直正の改革

屈辱的お国入り

佐賀藩中興の祖が治茂なら、仕上げを成したのは直孫の第十代藩主・鍋島直正(文化11年/1815年生)。

第9代藩主・鍋島斉直なりなおの頃、強烈な財政難に見舞われ破たん寸前となった。斉直は、行政組織を簡素化して、不必要な機関を徹底して廃そうとしたが悉く失敗。挙句の果てには幕府の怒りを買い、隠居に追い込まれる(天保元年/1830年)。斉直の後を継いだのが、17男の直正。上に大勢の男子がいたのに、15歳の直正が跡継ぎになったということは相当な期待をかけられていた証でしょう。そして、その通りに、直正は英主ぶりを発揮していく。

弘道館も、直正の教育重視政策によって天下三弘道館として、水戸、但馬の弘道館と並び称される充実を見せた。恐らくは天下一の弘道館と称されても異論は出ない程、傑出した藩校だった。が、直正が受け継いだ途端に佐賀藩が大発展したわけではなく、そのスタートは屈辱にまみれたものだった。

斉直が隠居する当時は江戸屋敷にいた直正は、藩主を継いだ時に、当時の幕府将軍・徳川家斉より偏諱を受けて、鍋島斉正を名乗った。そして、お国入りの為に意気揚々と江戸を出立するのだが、江戸各所の商人や武家からは”夜逃げ”であるかのように罵られ、帰国したければ「金を返せ!」と借金返済を求める怒号によってお国入りの行列は止められた。進むも返すも出来ないで、兎に角、詫びて、詫びて、詫びて、詫びて、詫び通して、殿様行列どころではなかった。

息子の行列がそのような目に遭ったのに、父・斉直は江戸藩邸で悠々自適な生活を送ったと云われる。これは、上杉鷹山が、自身は苦しみながらも養父に対しては我慢を強いなかったことに共通する(参照記事「成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」)。昔の”殿様の”親子関係とはそういう歪なものだったのでしょう。そして、当初は、保守派(守旧派)の重臣達の顔色を伺うしかなかったので倹約令さえ言い出せず、それを言えても、せいぜい「無駄遣いは慎むように」程度のこと。借金返済どころか、参勤交代行列など絶対不可能な状況へと追い込まれて行く。しかし、転機が訪れる。

災い転じて福と成す

天保6年(1835年)。佐賀城の二の丸が大火に見舞われ全焼失。この時、その場に修復する事を求めた斉直に対して、直正は初めて逆らい、当時は荒廃して使いものにはなっていなかったと云われる本丸に”(二の丸)御殿”を移転し、規模を縮小して(つまり、身の丈に合う)お城再建を断行する。これを成す為の本格的に文書化した倹約令を発布。役人は、前年までの5分の1にまで報酬カットされるし強烈な緊縮財政に踏み切った。「粗衣粗食」を常として、煌びやかなものを一切排除。これにより、贅沢品を売り付けに来る商人は必然的に減り、それどころかお城を訪問する商人数が劇的に減って、有る物で賄う為の工夫も生む。

有る物(もの)で最も力を秘めているのは人である。というわけで、直正の頃、弘道館は飛躍的拡充が図られ、教育改革の柱となり、弘道館で学んだ優秀な人材は身分を問わず改革現場に積極的に投入された。そして産業育成による他藩との差別化を掲げ、「佐賀ブランド」が幾つも誕生する。その最たる”武器”が、陶磁器とお茶だった。

陶器と磁器の話

陶器の原材料は土(粘土)磁器の原材料は石(陶石)。どっちが優れていて、どっちが劣っているとかいう問題でもなく、どっちも焼き物として優れている。が、歴史の長さとしては圧倒的に陶器(=土器)が古い。土を捏ねて粘土状にして形を整えていく。太古の昔は、それを天日干しにして乾かして使っていた。でも、割れたり、水漏れしたりで大変だったようだ。それを焼くようになったのがいつ頃か、それは知らない。何処かの焼き物のWebSiteには詳しく書かれてあると思うけど此処では割愛。

窯場のようなものが無かった時代から土器を焼いて固めるようになった。粘土の特性として、熱しにくく冷めにくい=熱伝導性が低いということで、野焼きでも可能だった。大体、700度前後の野焼きで時間をかけて焼いていたのではないか?という事ですが、窯場焼きを行うようになってからは、1300度くらいで焼くような陶器(土器)も誕生する。寧ろ、窯焼きする事が常識となって以降は、1100度~1300度で焼いているらしいけど詳しくは知らない。

陶器や磁器の焼成(高温加熱工程)には酸化焼成と還元焼成という二通りがあり、酸化焼成とは酸素を十分に送り込む焼き方で”土物”=陶器はこちらが主流で、還元焼成は酸素をわざと不十分な状態にして焼くやり方で”石物”=磁器はこちらが主流とのこと。
還元焼成では、酸素不足となった鉄分や長石が酸素を求めて焼き物の表面に出ようとする噴出力を利用して、斑点や発光色の変化を浮き出させる。つまり、焼き方次第(酸素不十分状態の作り方次第)で思いも寄らない”模様”が生まれたりもする。これは価値の高低になっていくので、熟練の技も必要となる。
一方、酸化焼成に焼き方の熟練性は要らないのか?と言えばそうではない。高温を求める磁器と違い、低温でじっくり焼いて行くので、温度バランスを取るのが極めて難しいし、焼き上がりのタイミングを計るのも難しい。

要するに、陶器も磁器も簡単ではないって事だけど、焼き物と言えば”土もの”だった時代より、英雄も文化人も陶器を好む人が少なくなかった。日本の有名な陶器ブランドは、唐津焼、美濃焼、瀬戸焼、益子焼、信楽焼、萩焼、萬古焼、備前焼がある。因みに、瀬戸焼は「瀬戸物」という言葉を生んだことで知られ、信楽は、現在、NHKの朝ドラ『スカーレット』の舞台になっている。

唐津(陶器)から伊万里(磁器)へ

唐津焼は、唐津港が積出港である事からその名が付いているが、窯元が唐津に集中しているわけではない。従って、唐津藩の特産物=唐津焼というわけではない。寧ろ、肥前佐賀藩(鍋島藩)が治めていた武雄や伊万里・有田に多くの窯場があり、更に佐世保や平戸と言った処でも生産されていた。それらの地域から唐津港に運ばれて出荷されて行く焼き物(土もの陶器)の総称を「唐津焼」と呼んだ。

上述した西九州の窯場で焼き物文化がスタートしたのは、豊臣秀吉が最初の朝鮮出兵を行う文禄・慶長の役の少し前、1580年代に始まったものとされる。何処かの焼き物の見様見真似で始まったのかもしれないが、大きく花開くのは、文禄・慶長の役の際に、李氏朝鮮より連れ帰った陶工達の力によるところが大きいと言うのが定説。そして、千利休ら当時の高名な茶人・文化人によって「唐津焼」の茶器などが全国に知れ渡り、唐津の評判はうなぎ上りとなる。

豊かな財政だったと云われる唐津藩は、出荷港を持っていた優位性を生かして窯場の多くを藩内に呼び込もうとはしていただろうけど、この唐津藩というのが不思議な藩で、兎に角、藩主が安定しない。初代唐津藩主・寺沢家が二代で終えんした後は幕臣が形式上の藩主となり、大久保家が二代。松平家が三代。土井家が四代。水野家が四代。そして最後は小倉・小笠原家筋が五代続いて明治時代へ。ということで、統治者が長続きしないので約束事が破られることを嫌った窯元は唐津藩に擦り寄っては来なかった。

唐津焼の窯元を多く抱えたのは肥前鍋島藩ですが、初代藩主・鍋島直茂(1580年生~1657年没)の治世期・1637年に、「焼き物産業推進方針」を制定する。

陶器は、肥前以外にも日本各地で焼かれていた。が、肥前でしか生産出来ない強力な特産品を鍋島藩は手に入れていた。それが、「石もの」と呼ばれる磁器。磁器も、広義では陶器と呼ばれるが、粘土が原材料の陶器とは別ものであり、磁器は、陶石を細かく砕いて砂状としてそれに水分を入れて粘土に近い状態として器を製作する。焼きの違いなどはテレビの”お宝鑑定番組”などでもしょっちゅう紹介されるけど、簡単に書けば上述の通り。

江戸時代初期頃、”稼げる”唐津焼の窯場が林立した所為で、薪を求めて濫伐状態となり近隣山野が荒廃した。そして、近接する福岡藩他の山林に侵入しては無断伐採する不届き者も現れるなど近隣トラブルも発生。そういう問題よりも、高価格で売れていた茶器などが、業者が急増していた事で質の低下や価値の低下を生むなどブランド力を落として行く。唐津藩や佐賀藩にとっては大きな損失となる。が、(当時の日本の)何処にもない”石もの”を手掛けて大きく育てようとしていた佐賀藩にとっては、唐津焼のブランド力低下を逆に好機と捉えた。

磁器と言って、日本人がすぐに思い起こすのは、祝い事の引き出物として重宝されているマイセンでしょうけど、マイセンは、18世紀のドイツで発展して行った。しかし、伊万里に磁器製造が伝わったのは1610年代。マイセン地方より少なくとも1世紀は早い。伊万里焼は唐津焼と同様の理屈で、積出港が伊万里港なので伊万里焼と呼ばれたが、その大半は、有田で焼かれた。今では、有田焼という名前の方がスタンダードですが、磁器を焼き始めた頃は全て「肥前磁器」とか「肥前佐賀磁器」と呼ばれていた。

唐津の薪不足や質の低下を好機と捉えた鍋島直正は、陶器製造~販売を縮小して、磁器製造~販売を拡大。窯の手伝いに家臣団も参加させ、職人も商人も農家も武士も一体となって磁器で勝負した。すると、これが大いに当たった。陶器は全国に広まっていたが、磁器は佐賀藩独自の特産物となる。更に、磁器生産に大きく舵を切ったことが、逆に、唐津焼の魅力を再認識させる事となり、佐賀藩は、焼き物産業で大きく潤い借金を返済を成して行く。

しかし、磁器の成功の裏では、その技術力の他藩への流出を恐れ、全ての職工が監視下に置かれて藩外へ向かう事など一切許されなかった。つまり「自由を奪われた」。門外不出の”秘術”扱いを受けていた伊万里焼(有田焼)の秘密を探るために、他国からの”間者”潜入が繰り返されたが、多くは見破られ”消された”。しかし、江戸末期に遂に瀬戸内からの間者によって製法が知られる事になり、明治期に入ってから、瀬戸内地方でも磁器生産が行われるようになった。「せともの」という言葉は、この時からとも云われるが、要するに、磁器も庶民に幅広く愛用されるようになる。

嬉野茶

温泉で有名な嬉野ですが、「うれしの茶」の産地としても知られている。嬉野に茶栽培を伝えたのは明から平戸に渡って来た陶工達で、永享12年(1440年)とされる。当時の明朝には、”美味しい”お茶を楽しむ文化が根付いていたが、日本はまだお茶を楽しむという段階に無かった。彼らは、それが不満で美味しいお茶を栽培出来る場所を求めた結果、嬉野の不動山皿屋谷を見つけて茶の栽培を伝授した。彼らは、明に帰国した後にその事を伝え、次に訪れた明人は南京釜を持ち込んで来た。それによる釜炒り技術を得た嬉野では産地が拡大。一大茶摘み場となった嬉野のお茶をブランド化(=うれしの茶)して江戸へ売り込んだのが治茂で、それを海外輸出させたのは直正だと云われている。うれしの茶は「日本茶」として欧州で評判になったが、この時、伊万里焼(有田焼)の技術も紹介され、それがマイセンにも活かされたと云われる。

つまり、「日本」をヨーロッパ人に好意的に印象付けさせたのは佐賀だった?

石炭産業

唐津は、焼き物だけではなく、「唐津炭田」でも知られている。唐津炭田と言っても、唐津藩領よりはやっぱり鍋島藩内の多久方面に多く産出して、出荷港が唐津だったことでその名の由来となったと思われる。

炭鉱の活用によって、窯の大型化にも繋がったが、財政難を一掃した鍋島直正は、佐賀・鍋島藩を何処にも負けない軍事大国と成す。明治維新の成否は、佐賀藩(の最新兵器)を味方に出来た事に因る。もしも佐賀藩が徳川方に付いていたら、また違った形の日本だった事は間違いない。

義祭同盟

弘道館と共に幕末当時の佐賀藩士の国家政治に対する意識の高さを裏付ける象徴が「義祭同盟」。義祭同盟は尊王思想を広め倒幕を成すことを目的に組織された政治結社ですが、設立の中心となったのは水戸の藤田東湖と並び「東西二傑」と称された枝吉神陽(副島種臣の実兄)。神陽は、コレラに罹った妻の看病により自身もコレラ感染し、志半ばの文久3年(1863年)に、享年41歳の若さでこの世を去った。神陽が存命であったなら、明治維新の形、その後の征韓論や佐賀の乱による佐賀勢の失脚は起きなかったとも言われる。という事は、九州の中心地は現在の福岡ではなく佐賀であったかもしれない。恐らく、現在の佐賀人の中には、酒を飲む度にそういう話を面白おかしくやってくれる人も居そうだから佐賀で酒飲みたいなとも思うけど、何故か、佐賀に近い位置で生まれ育った割には佐賀とは縁がない。という事はさて置いて・・・

弘道館や義祭同盟で、1歳年上の大隈重信と行動を共にしたことで知られる久米邦武という人がいます。この人についてはあまり好まれない面があり、好まれない面とは、恐らくは征韓論を正当化する主旨での事であろうけど「日鮮同祖論」の急先鋒だった事。あ、書いた瞬間から虫唾が走る(苦笑)朝鮮半島の者達と祖先を同じとする・・・考えただけで悪寒が走る。が、人類は遡って行けば何処かで繋がっているであろうから今日だけは気にせずに先を進めます。

久米邦武よりは洋画家である息子・久米桂一朗の方を知っているという絵画好きの人もいるかもしれませんが、桂一朗は高名な洋画家・黒田清輝と同い年の友人であり、作品群は東京の久米美術館に展示されているらしい。邦武と桂一朗はあまり長年仲違いしていたらしく、しかし、それでは良くないと親子仲を取り持ったのは大隈重信という事です。久米美術館には、桂一朗の作品だけではなく、邦武の著作物の展示もあるらしい。

久米邦武は、明治4年(1871年)の特命全権大使岩倉具視の使節団の一員に選ばれて欧米視察の旅に出ます。この時、佐賀の英才として名を知られていた邦武には様々な役務が与えられていたのですが、”枢密記録等取調兼各国の宗教視察”、”視察紀行簒輯専務心得”などが知られています。この役務が無かったとしたら(歴史にタラればは無いのですが)、大隈重信よりもワンランク上だったと言われ、弘道館の成績でも常に首席だった邦武は、首相になれる器であったかもしれない。しかし、邦武は約2年に及んだ(正確には1年9か月?)視察からの帰国後に太政官の吏員となり、この欧米視察で見聞した全てを独力で執筆することに専念。そして明治11年(1878年)に全百巻に及ぶ『特命全権大使 米欧回覧実記』の編集を完成させる。この時、40歳。そしてこの執筆物だけで当時の金で500円を政府から得て、その金で目黒に広大な土地を購入。更に、桂一朗のフランス留学資金を出して尚有り余ったと言われるので、今ならいくら位の価値があったんだろうか。この執筆物は、その後の我が国が、欧米を正しく真っ直ぐ見る為の本当に貴重な資料となった。それ位の言わば国宝級の価値を認められた500円だったのでしょう。

更に、『大日本編年史』など国史の編纂にも多大に寄与した邦武は、政治家ではなく、稀代の歴史家としての道を歩まざるを得ない立場となっていたのでしょう。だから、政治のことは盟友である大隈重信に託した。そして、昭和6年まで生き、91歳で世を去った。こういう人がもう少し若くて、あと10年でも長生きしてくれていたら、第二次世界大戦との関わり方も違っていたのではないかな・・・と思いたいところです。

そして今回の表題、「卓犖闊達たくらくかったつ」は、邦武が、当時のアメリカ合衆国を評した中に記した言葉。その意味は、とびっきり自由であること。

邦武は、当時のアメリカ合衆国を、「欧州の自主の精神、特にこの地に集まり、その事業も自ずから卓犖闊達にて、気力はなはだ盛んなり。・・・(以降の文は省略)」と評した。更に、「イギリスは、アメリカ合衆国をインドのように扱えると勘違いしたが、アメリカ合衆国の独立を阻めずに搾取も出来ずに敗退した。アメリカ合衆国の強さは、インドとは異なる自主の民の強さに外ならず、イギリスはそれを理解していなかった。」等々と分析している。

そのアメリカ合衆国も、アメリカ合衆国によく学んだ筈の我が国も、現在は、窮屈でギスギスしていて卓犖闊達とはかけ離れつつある。明治の日本が目指したのは卓犖闊達な日本であり、それは成功へ向かったのに、何かを間違ってとん挫した。だから、本当の日本の保守政治は、現在の自民党政治のような団結主義ではなく、個人個人が能力を発揮できる卓犖闊達な社会を目指すべき。明治日本が、そして大正日本が目指した国家を更にもっと良い形にしたとびっきり楽しい自由主義国家が欲しい。 

きっと、江戸時代の有田の磁器焼き職工達は、報酬よりも卓犖闊達であることを強く望んでいた。そしたら、支那やマイセンに勝るとも劣らない 、もっともっと物凄い焼き物を世に出していたかもしれない。いや、今でも世界の有田焼には違いないけどね・・・

コメント

タイトルとURLをコピーしました