為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ

「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」
この言葉は、戦国時代を代表する武将・武田信玄の言葉とされる。
武田信玄の行く手に大きく立ち塞がったのが、同じく、戦国時代を代表する武将・上杉謙信。「為せば成る」と強く心に誓った信玄の天下統一の野望(大望)は、謙信という大敵が隣国越後に存在したことで大きく時間をロスして遂に成し得なかった。が、もしもこの言葉を信玄の言葉とするならば、自分(武田信玄)という強者と渡り合うくらいに実力を持つお前(謙信)が、どうして天下を望まない?何故、最初から成せるかもしれないことを為そうとしない(捨てている)?大望を持たない者(謙信)が、それを持つ者(自分=信玄)の行く手を阻むとは憐れな事だ。という忸怩たる思いを滲ませた言葉かもしれない。勿論、勝手な怪説ですが。
「出来る事、出来なければならない事からつい逃げてしまうのが人の儚さである」と信玄は語った。その真意に更に突っ込むなら、「出来る事から逃げるような人には何事も成せない」という戒めの言葉。人の儚さは、”愚かな人”とか”情けない人”という意味にも取れます。
信玄は、何としてでも天下に号令をかけようと”成そうとした人”ですが、川中島(北信濃)に執着して遂に成せなかった。北信濃に見切りをつけて、もっと早く東海方向へ抜けていれば”成せた”かもしれない。この事(川中島=北信濃攻略に信玄と謙信の双方が強く拘った理由)は何れ書くつもりでいますけど、先述の言葉を遺したとされる信玄は、「もっと頑張れば(謙信に勝つ事が)出来るのだ」と自分や家臣団を信じていたのでしょう。結局、謙信に勝つ事は出来なかったものの、北信濃を大方手に入れたのは武田方だった(それも束の間で終わるが)。
次代(武田勝頼)で甲斐武田家が滅んだ事を想えば釣り合わないでしょうけれども「人は石垣、人は城、(人は堀)、情けは味方、仇は敵」「風林火山」等々の言葉と共に武田信玄は多くの日本人の心に刻まれ、現代まで語り継がれている。
父親(武田信虎)から疎まれ、家督相続さえも危ぶまれた少年期を思えば、その父を強い意志を持って追放して甲斐を率いた。天下に号令を発する時間は持てなかったけど、”成せた人”だと思えます。
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり

上杉鷹山の言葉
後に、上述の信玄の言葉を基に、奇しくも、謙信所縁の上杉家の家督者となった上杉鷹山が詠んだのが次の有名な言葉です。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
鷹山が上杉家を任された時、お家は火の車。財政破綻状態で、藩政改革の先延ばしが許されない状況にあった。鷹山は、神将と讃えられた謙信に繋がるこの名家の家臣団に対して、極めて辛辣に「出来ないのは、その人のやる気の無さである」と叱咤した。「成し遂げる意思(覚悟)を持って行動しない人には(何も)成せる筈がない」という戒めです。
上杉鷹山は、日向・高鍋藩から米沢藩へ養子に入った人なので、上杉家に生まれ育ったわけではない。そして、上杉家の英雄でもある謙信が幾度となく戦った相手、信玄の言葉を借りて改革を鼓舞した。上杉家にとって神君・英主と崇め奉られる謙信。その謙信の最大のライバル信玄の名言になぞらえた言葉で叱咤されたとあっては、古くから上杉に仕える家臣達は面白くない。それを百も承知で”喧嘩を売った”のだから、鷹山の強い意志と度胸を感じられて面白い。因みに鷹山は、博多の黒田家の分家である秋月家に所縁がある高鍋藩主・秋月種美の次男。なので遠い米沢藩の事とは云え、福岡県民や九州人にとっても親近感を覚える人。
鷹山が招かれる以前の米沢藩の経済事情
上杉家は、高家の吉良氏との縁が深い。”忠臣蔵“でやられた側の吉良上野介(=正式名は、従四位上・左近衛少将・源上野介義央)の子が、上杉家の養子に入った上杉綱憲(米沢藩第4代目)ということもよく知られている。
結果として徳川家康に負けた景勝の時代に、所領地の強制転換(越後=>会津=>米沢)を承服。これにより収入が大幅減となった米沢・上杉藩は恒久的な赤字続きとなる。これを何とかしようとした上杉定勝(綱憲の外祖父に当たる)は「他家の風を真似ず、万事質素にして律儀ある作法を旨とする」という藩令を制定する。が、名家・吉良で育ったお坊ちゃま・綱憲は、我慢とか倹約とか質素などの言葉が最も似合わない人。この人を藩主としたこと自体、(当時の)上杉藩の内政がボロボロだったことを物語る。名家・吉良の”縁”の力を期待された綱憲だったろうけど、『忠臣蔵』話へ向かう裏事情を知る限り、上杉にとっては大いにあてが外れた形となり、綱憲の治世期は藩財政の赤字体質を更に”大幅に”悪化させた。
文化人だった父・上野介の影響を強く受けていた綱憲は、教学振興に努め、越後や米沢などでの上杉家の歴史編纂には物凄く執心した(でも、改ざんされたことも数多い?)。
元禄10年(1697年)。 綱憲は、現在の米沢興譲館高校の前身となる藩学館(聖堂・学問所)を建設する(藩儒兼藩医の矢尾板三印の自宅敷地内)。聖堂の扁額は「感麟殿」と称されたが、この年に謙信と景勝の年譜は完成となる。
謙信と景勝の歴史を”しっかり創った”綱憲に対して、家臣の評判はうなぎ上りとなったが、翌元禄11年の塩野毘沙門堂や禅林寺(現・米沢法泉寺)の文殊堂、その他の社寺の大修理や、米沢城本丸御書院、二の丸御舞台、麻布中屋敷新築などの建設事業を行うなど、財政事情を考慮しない”無駄遣い”が顕著となる。加えて、(上野介の意向もあったのか?)参勤交代を華美にして「上杉家ここにあり」的なデモンストレーションにも強く拘った。
定勝の藩令に対して大きく逆行した綱憲は、心ある家臣からの支持を得られなくなる。それでも、ばくち打ちに対する死刑制度を始めるなど道徳や規律を守らない者達への対応は厳しかった。民に対してのみではなく、風紀を乱した譜代家臣に対しての追放処分を行うなど、公平・公正な面を見せたが、堅苦しさも目立った。そのことで、伝統的な(頭の硬い)家臣にはウケが良かったが、藩政改革の声には耳を貸さない(=批判の声が届かない位置に祀り上げられた)。綱憲の側近には、伝統ばかりを重んじる(変化を嫌う)者達で固められ守旧的政治を深化させ、改革派は遠ざけられていく。
しかも、浅野家との争いが原因で失脚した実父・吉良上野介を、財政状況が苦しい中で援助(=公金の私費流用)。その事が、旧浅野家家臣による仇討ち事件(いわゆる”忠臣蔵”)により上杉藩の評価をガタ墜ちさせる要因ともなり、何処からも支援の手など伸びて来なくなった。だからと言って、旧態依然の重臣達にも財政を好転させる手段は何もない状態で悪戯に時は過ぎた。
鷹山と上杉の関係
財政再建の目処も何も立てられないまま、忠臣蔵事件で大きく評判を落とした綱憲が隠居(元禄16年/1703年)。庶長子・吉憲が第5代となるが力及ばず、恐らくは心労重なり39歳の若さで薨去(享保7年/1722年)。吉憲の嫡男・宗憲が第6代藩主(幼君)となるがこちらも多分重圧に倒れ・・・と言うか、殆ど君主らしい仕事も出来ずに22歳の早死(享保19年/1734年)。宗憲の弟・宗房が第7代藩主となり、こちらは少年君主ながら頑張って倹約令を発令するなど改革着手に向かったものの29歳で他界(延享3年/1746年)。第8代には宗房の弟 (吉憲の四男) ・重定が就くが、最早、どうにもならない程、藩財政はズタズタだった。思い余った重定は、幕府に領地返上して、領民全てを徳川家預りにすることまで考えていたという。
そして、藁にも縋る思いで藩再建を託したのが、若くして賢才と謳われていた秋月治憲。
第八代米沢藩主・上杉重定は、若くして賢才と謳われていた秋月治憲(=鷹山)と養子縁組し、(鷹山に対して)「一切口出しせず」という約束で、九代目の米沢藩主として迎え入れた(宝暦10年/1760年)。というのが定説だが、養子縁組ではなく娘(幸姫)の婿というのが正しい。そして、娘婿となる約束を結んだ当時の鷹山は、まだ幼名・松三郎を名乗っていた寛延4年7月20日(1751年9月9日)生まれの、当時まだ8歳か9歳の少年。類稀なる英主になる器かどうかなんてまだ何も分かっていない。
元々、筑前・秋月を所領していた秋月家が、豊臣秀吉の九州征伐軍に大敗北を喫して日向・高鍋へ移封。やがて秋月は、福岡黒田藩の支藩となった。領民には強く支持されていた秋月家に対して、よそ者である黒田家は親戚となることを望み婚姻。当時の高鍋藩(日向秋月藩)第6代藩主・秋月種実の正室・春御前(鷹山の生母)は、筑前秋月藩(黒田分家)第4代藩主・黒田長貞の娘。そして、春御前の祖母に当たる豊姫は、何と上杉綱憲の実娘。つまり、鷹山と上杉家は、何の縁も無かったどころか、名君・鷹山は、悪名高き綱憲や、綱憲の父・吉良上野介の血を受け継いでいる。実に因果で面白い。日本の歴史上、嫌われ役として十指に入りそうな・吉良上野介の五代後に、日本の歴史上、尊敬される人物として十指に入りそうな鷹山が誕生する。
鷹山の改革
正式に家督を継いだのは、治憲と改名した明和4年(1767年)で15~6歳だった。元服は前年(明和3年)。家督を継ぐまでの間は江戸住いで、儒学者(折衷学派)・細井平州に師事している。折衷学とは、つまり、様々な学問の”良いとこどり”をしていることだが、時間がない鷹山にはそれが良かったのでしょう。平州は、いよいよ米沢へ向かう事になった鷹山に対して、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや」という言葉を送った。要するに、勇気がなければ何事も成せないと鼓舞した言葉である。それを強く心に刻んだ鷹山は、旧態依然の家臣達が待つ米沢へ向かう。因みに細井平州は、改革の目玉として人材育成に着手する鷹山が、藩校を立て直す為に米沢へ来てくれることを切望し、寛政8年(1796年)、69歳の老骨に鞭打って来訪した。そして「(米沢)興譲館」と名付けたのは平州と言われる。
江戸の町民でさえ笑い話にするくらい疲弊・落ちぶれてしまった米沢上杉藩で、鷹山が最初に行ったのは人事。自分の意に沿う人材を、身分・年齢に関係なく登用する。これに対し、重役たちの多くが猛反発。その不満を隠居した重定へ持ち込むが、そこは重定も大したもので、「他家から来た者とは言え、我が娘婿であり君主である。治憲に対する無礼は許されない!」と一喝したと云われる。が、重定から要求された莫大な隠居料と隠居後の生活資金は鷹山の改革の大きな妨げになる。しかし、鷹山は義父に一言も不満を言わずに、自分の生活費を削りに削って重定の面倒を見続けた。恐らく、その方が重役たちと戦うことに対して有利に働くと判断したのでしょう。
あまりの倹約令に業を煮やした旧臣達が起こした七家騒動(安永2年6月27日/1773年8月15日)では、重定は、全面的に鷹山を支持する。須田満主と芋川延親に切腹を命じ、千坂高敦や色部照長、長尾景明、清野祐秀、平林正在には隠居や閉門及び蟄居を命じた。(後に、千坂家や色部家、須田家、芋川家はお家再興が許された)。七家騒動鎮圧時の揺るがない姿勢が功を奏し、若い改革派は鷹山を強く支持。また、武士の身分を捨てて民に身を投じて農労で藩に貢献する姿勢を表す人たちも多く出て来るなど、米沢藩は見事に財政再建を成し遂げた。
鷹山は、米沢のみならず日本国中から(現代に於いても)称賛される英主となった。
「為さねば成らぬ!」と、伝統的家柄の重臣達から嫌われても鼓舞し続けて、大事を成した鷹山。領土を拡大した軍事的英雄達とは一線を画し、藩を継続させることに大成功した真の英雄と言える。
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