新・日本古代期怪説(6)~アイヌからの卒業~

黎明期

世界最古の土器文化(縄文初期)は、青森~北海道に起こった

情報伝達手段がほぼ口伝(口承)に限られるアイヌの、特に古代期の歴史は殆ど見えて来ない。
科学の更なる進化によって、いつかはアイヌ古代期の全容が明かされる日が訪れるかもしれないが、恐らく、私が生きている間には無理だろう。随って、アイヌと古代日本人(初期縄文人=アズミ人)の関係性について書いている当BLOGの記事は、何の確証も無い絵空事の怪説で終わる。けれども、1世紀後の子ども達の教科書では、きっと以下のように記載されている。

最初の日本文化(=初期縄文文化)は樺太、或いは千島列島経由で入って来たアイヌ人によって齎されたものである。彼らのうち、本州へ渡った人達は”アズミ人”と呼ばれ、この人達の手によって、縄文文化は二次的発展を始めた。

以上に類するような記述となった歴史教科書を用いている頃には、愚かな反日思想・自虐史観を口にするような日本国民は皆無に等しい状況だろう。

既に、世界で最も古い土器文化は古代日本の北海道~青森で始まっていたことが規定化(=世界常識化)される寸前まで来ている。現在のところ、約1万6500年前までは確実に遡れるようだ。早く、2万年程度前辺りの発掘まで行き着いて欲しいけど、兎も角、最初の日本人(原日本人が)の興りが、現在の朝鮮半島を経由して北部九州に入った人達、などという誤認識を持たされる子ども達を無くして欲しい。さて本題へ・・・

アイヌと移動性狩猟・採集時代の死生観

共生/共和

アイヌも古代日本人(初期縄文人=アズミ人)も、森羅万象・自然との共存共栄を常とした。特にアイヌでは、自分達が自然を作り変えて大きな栽培地を持つという発想は芽生えず、自分達にとって本当に必要な分だけを狩猟・採集する。という伝統的な生き方を継承し続けた。狩猟・採集行為の前後には、神への赦しと感謝の祈りを捧げることを忘れない。そのような暮らしに徹していたので、爆発的人口増も起こさなかった(大きな人口=都市人口を必要としなかった)。

アイヌ族の信仰神事「カムイノミ」(=神への祈り)には、日本人古来の神々への思いを感じさせる部分が多々ある。当BLOGは”怪説”と謳っているものの、アイヌと古代日本人(初期縄文人=アズミ人)は、同じ旅を続けて来た同じ民族だったという事を大前提に書いている。食生活が異なっていく事や装いの違いなどは、生活圏の自然環境が違って行った影響もあったと思う。またアズミ人が他民族と混血して”ヤマト人”の文化を生み、混血に拠って見掛けや言葉も大きく変化して行った。しかも、正しい先祖、正しい出自(歴史)を見失ったヤマト人は、やがてアイヌを攻撃し、アイヌから生活圏を奪うような悪行に至った。
極めて辛い関係になったが、日本人の古代史観が正しく変化出来れば、アイヌとヤマトの未来の歴史はきっと良い方向へ向える。数万年共に歩んだ時間を数千年間忘れてしまっている状態だけど、こればっかりはヤマトが一方的に悪いので、ヤマト側が思考(&教育)を改めるのが当然。外交も大事だけど、内政問題で見て見ぬ状態を改めることはもっと大事だ。
太古の昔より、共生の和を乱す行為は嫌われた。特に、皆で移動して協力して狩猟・採集を営んでいた時代には、和を乱す事は部族全てを危険に晒す事になりかねなかった。だから、和を乱す行いに対しては罰則を求める声も出る。その事が分かっていたからこそ、「和を以て貴しとなす」ヤマト文化も生まれたわけだが、それを教えてくれた共生の祖であるアイヌを敵とした過ちだけは忘れてはならない。

盟神探湯と処刑制度

或る時、今も樺太アイヌ族に残る盟神探湯(=神明裁判)のように、誰かを”裁く”事が始まり、処罰が下されるようになった。樺太アイヌ族には古くから処刑制度があったと云う。アイヌの刑法による刑罰は結構怖い。耳削ぎ、鼻削ぎ、棍棒での杖刑、アキレス腱切断、等々。そんな刑罰を受けたら、「もう二度と悪さは致しません!」と泣き叫びそうだ。そして樺太アイヌの処刑は、生き埋めの刑であった。ちと恐ろしい。

因みに盟神探湯くかたちは、時折、大和朝廷でも行われていた。最も多く盟神探湯を開いた人は、室町幕府六代目将軍・足利義教とされる。織田信長も、盟神探湯を行ったと云われるが誰を対象としたものか分からない。 西洋では一般的だった神名裁判ですが、日本では、足利幕府時代を最後に姿を消した。恐らく、仏教的考え方が浸透し過ぎて寺院や僧侶に権威を持たせ過ぎた事により、神々が蔑ろにされたからでしょう。

話を戻すと、 処刑制度を持った樺太アイヌに対して、北海道アイヌには処刑制度はなかったとされる。両者は、同じアイヌでありながら罰則規定の考え方に若干の違いがある。この考え方の相違によって、大きく二つのグループに分かれる事になったのではなかろうか?つまり、処刑制度を維持するかしないかで意見が分かれた。そして・・・
処刑制度ありきで独立して本州へ向かったのがアズミ人で、ヤマトの祖となった。
処刑制度を持たず、北海道に根付いた人達が北海道アイヌの祖となった。

老いの悟り

処刑制度があろうがなかろうが、アイヌ人(=古代日本人=アズミ人)の生活スタイルは、移動性狩猟・採集が基本だった。本当に必要な人数分だけ、共同して獲物を仕留め、共同して採集する生活を営んでいた。そして、その場所が狩猟・採集生活に適さなくなれば移動する。自然を破壊しない為に、また、動物達の生活を破壊しない為に、いつまでも其処に居座ることをしない。しかし、どんなに健脚の人でも寄る年波には勝てない。どんなに偉い長老にも、悟らなければならない時が訪れる。

というわけで、共生(共同生活)に必要な移動力が衰えていく長老達は、狩猟・採集に適さなくなった場所に、運命を共にする為に居残った。狩猟・採集に適さない場所、ということは未来がどうなるか明らかです。其処に未来は、ありません。でも、それが究極の卒業だった。卒業には二種類あって、出て行く卒業と、覚悟を極めて引退して「道を譲る」卒業です。
移動が辛くなった時、長老達は「道を譲り」子ども達を先に進ませ自分達は踏み止まり、お迎えを待った(土に還った)。つまり、次のリーダー達は親たちを、子ども達は祖父母や曽祖父母達の最期を看取らずに旅立った。だから、年老いた者達の死に至る瞬間を知らない。死を伝承しない。自然との共生者は自然に還るのでそれは終わり(死)ではなかったのかもしれない。そして「御隠れになった」「神隠しにあった」と子ども達に言い伝えた。

道を譲られた後輩達は、耳にたこが出来るほど「生き方」「守り方」を伝授され、新たなリーダーの下で次の場所へ移動する。居残った長老達はやがて死に至り、その屍は、植物や獣たちの生存の為の肥やしとなる。そしてまたいつか、そのお別れした場所へ子ども達が戻って来るが、それは何世代も後の子ども達である。そして、次はその何世代も後の子ども達がその土地で長老となり死に至る。そのようにして、「先祖戻り」が延々と繰り返されることで、自然は守られ、人間は必要最小限の数を保ち続けた。

“姥捨て山”にも通じる事ですが、「いや、ご先祖様は死んでいない。仙人となられたに違いない」という事を思う(願う)人は居なかったのではないかな?だって、生を受けた者は、最期は必ず死に至って自然に還るという考え方こそが正しいのだから。人間だけがいつまでも永遠に生きようなんて、命を取った獣や魚や植物その他に失礼でしょう。ところが、定住域を持つと、辛い移動から解き放たれた年寄いた者達は、居住域の中で死を迎える。つまり、年老いたら人は死ぬという瞬間を見届ける事になる。旅の途中の事故死や病死などは見て来ただろうけど、年老いた人はいつか必ず死ぬ、という事を認識したことで新たな死生観が芽生えることになる。が、それは定住集落が始まる本州での暮らし以降の話。その話へ向かう為に先を急ごう。

千島廻りチームが北海道へ入ったと考えられる紀元前1万5千年頃には、既に、樺太廻りチームが北海道の住人として彼方此方で狩猟・採集生活を繰り広げていた。
やがて、道内の何処かできっと鉢合わせしたであろう両チームは、遠い昔に分かれた、同じ顔をして、同じ言葉を用いる親戚との”数万年ぶりの再会”を喜んだでしょう。けれども、基本的には先住者を優先する仕来りに従った。故に、後から北海道へ入って来た千島廻りチームは、樺太廻りチームとの上手な共生の為に北海道東部を狩猟・採集生活の場とする。一方、樺太廻りチームでは新たな旅立ちへの動きが起きていた。そして自分達の後裔が、北海道(蝦夷)を攻撃するなど夢にも思わずに、新天地「本州」へ渡って行った。

広大な北海道、もっと広大な樺太、そして千島列島には、アイヌ独自の文化・風習が延々と受け継がれて行くことになるが、本州へ渡った安曇人達は、やがて支那人や鮮人と出会う事になり、混血し、まるで違う進化を見せる事になる。

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