新・日本古代期怪説(4)~日本列島への到達ルート~

黎明期

日本列島の位置を知らない人達の旅

日本列島は、当たり前だが太平洋、東シナ海、日本海、オホーツク海などに囲まれ、大陸から歩いて来るのは不可能だ。いや、歩いて来れた可能性を持つルートが無いわけではない。そのルートは、樺太経由か千島列島経由のオホーツク海ルートであり、但し、流氷が完全に陸地の代わりになっている状態である事が絶対条件。だが、超氷河期のような時代が地球に存在したのは事実だし、原日本人となる古代人達は、溶けない流氷で敷き詰められたオホーツクを徒歩で”大勢が渡って来たのだ”。

マンモスに限らず、アザラシやトドなど海獣を食糧して捕獲・食しながらであれば、流氷の上を何ヶ月か歩けるだろうし、流氷表面はあくまで氷で塩水ではない。だから、削れば水分補給の代用になる。海獣と水分。それが確保出来る”流氷幹線”を通って北海道へやって来た。

というのが、当BLOG主の、あまりにも単純過ぎる(科学的根拠も何もない)結論なのだが、南方(台湾~沖縄・・・)や東方(朝鮮半島~対馬・・・)から、船を漕いでやって来たという説を絶対とする人(学説)の方が圧倒的に多い。

“古代船”を漕いでやって来た。という説を正説とするには、二つ、三つと条件が付く。

●全体行程の距離感を大まかにでも把握出来ていて、漕いで行って最初の陸地までの時間的予測が立っていること。

●⇈の予測に基づく相応の飲み水や食糧を積み込んでいき、運良く海に落とさずに済むこと。

●到達する陸地で、十分な水分や食糧の補給が可能であり、次の陸地までの予測も立っていること。

最低でも、以上の条件がクリア出来ないなら絶対に航海は不可能。現代に於いて、木造のボロ船で侵入して来る(表面上は”漂流”)北朝鮮人がたまに発見されることがあるが、そのボロ船も「船」と呼べるシロモノで、少しは食糧や飲料を積んである。しかも、北朝鮮からの”漂流者”は日本の存在を知っていて、何らかの理由で日本を目指した結果救われている。

古代期のヒトは日本の存在を知らない。数万年前の古代期に於いても、頑丈な草を編んだ”船”を造ることは可能だったと考えられているが、此処に日本列島があるということが”見えていない”(=知らない)という条件なら、目的(侵略・移住)を持っての”渡航”は不可能に近い。

国立博物館が、令和1年7月12日にプレリリースした検証結果に依れば、丸木船を漕いで台湾から与那国へ渡ることは出来る。但し、万一の為の並走船と一緒に、その並走船の方に補充用の飲料や食料が積まれているという”安心感”も伴っての実験。台湾から与那国島という地図上の位置を知っていて、星の位置も利用しながら二日間(45時間10分)漕いで成せた。大陸から台湾~”先島諸島”~沖縄~奄美・南西諸島~鹿児島・・・。古代日本人誕生の為の航海ルートの一つとして考えられなくもない。しかし、国立科学博物館のコメントにもあるように、現代人として科学的に知っている全てを駆使して成せたことであり、「見えない位置」に対して、十分な事前準備が出来る道理もなく、闇雲に漕ぎ出すような真似を何のために行う?見えれば、「そこに島があるから」で向えるが・・・

南方ルートを考察

ホモ・サピエンスは、約4万5千年前にオーストラリア大陸へと到達した。それから約1万年後の3万5千年前辺りには日本列島へ渡って来た。というのが人類学や考古学の定説である。オーストラリア発見までの経路(順路)については、「視力が優れていた古代人」という前提で「ヒトと社会」という記事を想像で書いてみました。そこに山が在るからという理由で登山する人同様に、そこに島(海岸線)が見えたから渡ってみようという人達が海を越えた。そして、オーストラリア大陸へ人類は辿り着く。そこまでは納得出来る。が・・・

いくら視力が優れていても、南方の島から日本列島(例えば現代の沖縄県の島々や東京都の島々)を発見するのは不可能でしょう。何も見えない先を目指すなんてこと、します?「島影は見えないけど、冒険に出てみた」としても、水を飲まなきゃヒトは水分不足で死ぬ。体力的に凄い人達だったにせよ、丸木を組み上げた筏かそれよりはちょっとマシ程度の小舟しか作れない時代の話。その頃のヒトがいくら冒険心が強かったにせよ、全く何も見えない大海原へ漕いで出たら、たった一日飲まず食わずしただけで絶望的不安感に包まれる。そして元の浜へ戻るしかなくなる。なので、島影も何も見えない中を、太平洋から南シナ海~東シナ海へと向かうなんて、空想話にしてもあまりにも奇想天外過ぎ。だから、縄文系日本人が南方(沖縄や太平洋上の諸島)から入って来たという説を訝しむ。

但し、台湾から与那国~そして沖縄・奄美などへの古代航海の可能性をゼロとは言わない。沖縄に、D1a2a(縄文系日本人)の遺伝情報を持つ人が多いというのは事実だから、北方ルートとは別のグループが台湾経由で沖縄までの旅を行った。という歴史はあったかもしれない。アイヌの人と沖縄の人は何となく印象が似ているし、でも、沖縄から先へ到達した可能性は限りなく薄い。

教科書的定説(鮮半島~対馬~北部九州)考察

プロパガンダに過ぎない

3万5千年前説が正しいにせよ、南方からの到達はせいぜい沖縄まで。では「最初の日本人は、朝鮮半島から対馬へ渡り、九州へ来た」という教科書的”定説”について。
そもそもこの話は、「日本人は韓国人と共通祖先を持つ」とか、「韓国人から分離されたのが日本人」とか、「韓国人が親(或いは兄)で、日本人は子(或いは弟)」とか、そのような思想を持つ人達のプロパガンダが根底にある話。「今日の日本があるのは韓国の(協力の)おかげである」とか、日本の大源にあるのは韓国=「日本の全ての起源は韓国」でなければならないという思想に凝り固まっている人達らしい発想だが・・・

現在、朝鮮半島と呼ばれる地帯に、古代韓人が(支那・殷王朝によって)連行されて来たのは紀元前15世紀頃。殷王朝当時の虜囚だったと考えられる彼らには、まだ「韓人」の呼称も無かった頃だ。詳しい出自も分かっていない。早い話、紀元前15世紀以前の朝鮮半島に韓人の姿は無かった。だから、本当に原日本人の列島への到達ルートが朝鮮半島経由だったにせよ、韓人から分離した話にはならない。

全く以て話にならないが、根拠もなく頭ごなしにただ否定するだけでは楽しくないので、朝鮮半島の先史にも少し触れておきます。

鮮半島の簡単な先史

何でも韓国起源説を唱える韓国人の中には、鮮半島に原始人類が到達した時期を約50万年前に遡るという荒唐無稽な主張をする人(学者?)がいると云う。全く以て馬鹿げている。まァ、人類とはとても呼べない鮮半島固有の生物が登場していたのならそれは知らないし、知らない事は否定もしない。韓人が、ホモ・サピエンスを起源としない独自人類だということであれば凄く納得出来るし、それはそれで面白いので、是非、喧伝して下さい。

現代の地球上の殆どの人々に繋がる新人類(ホモ・サピエンス)が出現したのはアフリカ大陸で、それはどんなに早くても今から約20万年前の出来事。出アフリカを果たすのはそれから10万年以上も経ってからというのが一般的(と言うか当たり前の)学説。50万年前に鮮半島にヒトがいて、それが韓国人の起源なら、それはホモ・サピエンスではなく、ホモ・エレクトゥス(ホモ・エレクトス)かもしれない。エレクトゥスが韓国人の主たる先祖であるならサピエンスと肌が合うわけがないな。とか意地悪な言い方も出来る。

放射性炭素測定に拠る一般的学説では、鮮半島に新人類が出現した時期は、今から3万数千年前辺りとも云われている。鮮半島から対馬を望むことは可能だろうし、ヒトの習性として、発見した島へは渡ろうとするだろう。だから、約3万5千年前頃の人類が日本列島へ到達したという話に於いて、その侵入経路が鮮半島=>対馬という可能性はゼロではない。が、その人達が”古代韓人”だった事は無い。そもそも、国家が存在しない時代に何処を通過して来ようと、現代国家と絡めて物事を考えることは完全に間違っている。

支那東北部(=満州南部)を流れる遼河は、現在の河北省を水源として、内蒙古~吉林省~遼寧省を通って渤海へと注ぐ大河。その流域に発生した古代文明が遼河文明で、紀元前6200年頃に誕生した文明だとされる。この文明は、1908年に、日本人考古学者の鳥居龍蔵によって発見された紅山文化(中国河北省~内蒙古東南部~遼寧省西部)に始まる。紅山文化の年代は、紀元前4700年頃~紀元前2900年頃となったが、それを含む遼河文明は紀元前6200年頃から紀元前500年頃と規定されている。内訳としては・・・
興隆窪こうりゅうわ文化(紀元前6200年頃~紀元前5400年頃)
新楽しんらく文化(紀元前5200年頃~紀元前4800年頃)
超宝溝ちょうほうこう文化(紀元前5400年頃~紀元前4500年頃)
紅山こうさん文化(紀元前4700年頃~紀元前2900年頃)
夏家店かかてん下層文化(紀元前2000年頃~紀元前1500年頃)
夏家店かかてん上層文化(紀元前1100年頃~紀元前500年頃)
途中空白期が見られるが、その内に、その空白を埋める文化期が発見される事でしょう。それはそれとして、興隆窪文化期の遺跡から発掘された櫛目文土器くしめもんどき(或いは、櫛文土器)は、ユーラシア大陸北部の森林地帯で発達したものとされる。それが、バルト海沿岸やシベリアやモンゴルでも出土して、遼東半島や朝鮮半島でも見つかっている。朝鮮半島の櫛目文土器は、最も古いもので紀元前4200年以降のものと検証されているので、遼河文明から流れて来たものと考えられる。

後述しますが、鮮半島に何らかの文化が根付くのは殷王朝が進出して来て以降のこと。土器が発見されたからと言って、独自文化を持つ民族の集落が形成されていたわけではない。対して、例えば青森県の大平山元Ⅰ集落遺跡から発見された無文土器(縄文式土器)は紀元前14500年頃のものであり、茨城県の後野集落遺跡や神奈川県の寺尾集落遺跡で出土した無文土器も紀元前1万3千年頃。更に四国へ渡り愛媛県の上黒岩岩陰遺跡から出土した細隆起線文土器は紀元前1万年頃のもの。という具合に、世界最古の土器文化の一つと目される縄文式土器の年代変遷だけを辿っても、日本列島での人の流れは、北から南、東から西であったことが窺い知れる。つまり、鮮半島から対馬を経由して来た人達が数万年前に居たにせよ、文化的生活圏を築くまでには至っていない。

原日本人=縄文人は北海道から入って来た

話は戻るが、支那に殷王朝が成立していた時期は、おおよそ紀元前17世紀頃から紀元前1046年にかけて。紀元前17世紀以前の支那には夏という最古の王朝が約300年程続いたとされる。が、夏の国家領域は現代の共産党政府が支配する国家領域とは比較にならない程狭く、河南省辺りに限られたとされる。そもそも、いくら覇権主義の目覚めが早かった支那人でも、古代期に、国家領域をたくさん持たねばならない人口も理由もない。殷王朝にしても、現代の国家領域に比べれば20%程度に過ぎないし、沿岸部はほんの僅かでほぼ内陸国家だ。海(塩水)のある暮らしより、川(淡水)のある暮らしが重要だった。古代とはそういうもの

朝鮮ではなく「鮮」である

殷王朝が西進し始めたのは紀元前15世紀以降と考えられ、鮮半島(朝鮮半島)に辿り着いたのは紀元前12世紀頃の分家(殷王朝の28代目・文武丁の子、箕子が始祖となる)である箕子朝が最初。箕子朝による朝鮮半島の支配領域も北半分に限られるが、箕子は、朝鮮半島北半分の地名を「鮮」と名付けた。それが、鮮半島という名の興り。そして箕子朝の領域を指して、箕子朝鮮と呼ばれる事となる。 つまり、「箕子朝」+「鮮」=「箕子朝鮮」である。
箕子朝という分家王朝によって名付けられた鮮という地名は、その後も、別の王朝に引き継がれて行った。が、古代の事情をよく知らない頃の日本人はそれを大きく取り違えた。多分、箕子朝と付き合い始めた最初頃から間違っていた。箕子朝と分けるべき位置を、箕子朝鮮という風に受け止めた。そして、その地域に連行されて来て住み着いた人間(それはエヴェンキ族とも云われているが)を「鮮半島」に暮らすようになった人=鮮人ではなく、「朝鮮半島」に暮らすようになった人=朝鮮人と呼ぶようになった。呼ばれた側は、王朝の人間でもないのに王朝を意味する「朝」を先頭に付けて呼んでくれるものだから敬ってくれているものと勘違いする。早い話、鮮人は、日本人(鮮半島では倭人と呼ばれていた)を見下すようになったわけだ。

百済朝も高句麗朝も新羅朝も渤海朝も、鮮半島の所有者を主張することが出来ずに「朝鮮」とは名乗っていないが、高麗朝鮮も李氏朝鮮も現代の北朝鮮も、鮮半島の所有者であることを主張している。彼らはそれぞれ、高麗朝+鮮=高麗朝鮮、李氏朝+鮮=李氏朝鮮、北朝+鮮=北朝鮮なのだが、日本人はそういう風には理解出来ずに、一緒くたにして「朝鮮」「朝鮮人」と呼ぶ。
韓国=南朝鮮は、南朝という王朝が事実上存在せずに大統領制になったので大韓民国=韓国を名乗っているだけのこと。そもそも、韓という古語を教えたのは日本人だ。

現在の韓国大統領府は、北朝による統一朝鮮実現のための実行部隊に過ぎない。そして、南北が統一した暁には、金王朝+鮮で、金朝鮮とでも国家名を名乗るかもしれない。もしもそうなった時、彼らにとってそれは、金朝/鮮なのだが、きっと日本人は金/朝鮮としか理解しないだろう。

兎に角、日本人と鮮人が、何か親子関係や兄弟的DNAでなければならない理由は何もない。それどころか、何があっても絶対に近付いてはならない相手が鮮人だったのに、愚かな日本の先人達は鮮人や鮮半島へ何度も何度も懲りずに近付き、その結果が現状の有様だ。

縄文人(アズミ人)到達ルートの結論

兎に角、古代日本人=縄文人=アズミ人(安曇族)は、インド北部を旅立って、キルギス~モンゴル~シベリアというルートを採り、バイカル湖畔の何処かで大きく分かれた。

一つはブリヤート系となり、樺太を経由して北北海道へ。その頃の大陸と樺太は、陸続きだったか海峡と言っても大したことは無い目と鼻の先だった。樺太から北海道へ”流氷幹線”があったという単純な考えで書いたが、丸木船でも渡海は難しくない距離だ。

もう一つはヤクート系となり、千島列島を経由して東北海道へ。このルートは島々への上陸を繰り返すわけだけど、水分補給とか食糧調達などは厳しそうだ。丸木船、流氷の上を徒歩、何れでも可能なように思えるが、樺太経由よりはずっと年数が必要だったと思われる。

コメント

  1. […] 西暦1600年。大坂(大阪)と江戸(東京)の現在関係を位置付けたとも言える関ヶ原の戦いが日本で起きた。これに勝利した東軍を率いた徳川家康は江戸に幕府を開くが、江戸幕府は鎖国政策へと大きく舵を切る。それによって、織田信長の全盛期頃から活況を迎えていた南蛮貿易は大きく縮小されて、海外事情は入り辛くなる。当時の日本人が全く知らない(と言うより忘却していた=≫参照記事「日本列島への到達ルート」)カムチャッカ~千島や樺太に対して、ロシア・ツァーリ(=帝政ロシアの前身)の進出が始まろうとしていた。 […]

  2. みつき より:

    氷河期は陸続き。安曇族はミトコンドリアハプログループbとm7グループというのは有り得ませんか?

  3. Hirakawa-HR Hirakawa-HR より:

    みつき様
    貴重なコメントを頂いているにも関わらず、諸事情あり、ブログから遠ざかっていて返信出来ずに申し訳ありませんでした。
    ご指摘の件、自分なりに調べてみます。ありがとうございました。

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