
西暦1600年。大坂(大阪)と江戸(東京)の現在関係を位置付けたとも言える関ヶ原の戦いが日本で起きた。これに勝利した東軍を率いた徳川家康は江戸に幕府を開くが、江戸幕府は鎖国政策へと大きく舵を切る。それによって、織田信長の全盛期頃から活況を迎えていた南蛮貿易は大きく縮小されて、海外事情は入り辛くなる。当時の日本人が全く知らない(と言うより忘却していた=≫参照記事「日本列島への到達ルート」)カムチャッカ~千島や樺太に対して、ロシア・ツァーリ(=帝政ロシアの前身)の進出が始まろうとしていた。
ロシア国家の起源
帝政ロシアの起源を何処まで遡ればその国史の始まりと呼べるのか。これについては極めて神経質な話となる。途中途中で、現在のロシアとは強く対立するウクライナやグルジア(ジョージア)、モルドバ、アゼルバイジャン、アルメニア、リトアニア、ラトビア、エストニアなどの歴史や国土変遷に絡む。が・・・
ロシア国家の始まりは、大ブルガリア(現在のブルガリアの前身)から、テュルク系ブルガール人の一部が集団離脱した頃(660年)を起源とするのが一般的な見方とされる。そうであるならば、ロシアもテュルク系遊牧民族後裔国家の一つと言える。
放浪遊牧民だった彼らの末裔が、漸く定住地を得たのは8世紀に入った頃で、その場所は現在のロシア連邦共和国の沿ヴォルガ連邦管区内のイデル=ウラル地方に相当する。 ロシアは、連邦制国家であり、ロシア共和国内には22の共和国とその他63の自治区がある。 イデル=ウラルとは、ヴォルガ川両岸からウラル山脈を10以上の自治構成区に分けられている内、「共和国」を名乗る”6カ国”の領域を指す。(※此処から詳しく書くと、それは帝政ロシアではなくロシアの歴史になるので端折ります。)
ロシア・ツァーリの興り
現在のウクライナ共和国を中心とするキエフ大公国(キエフ・ルーシ)が大きく支配した頃や、12世紀頃から15世紀頃までの大半を「タタールの軛」時代のモンゴル系民族国家との共存などを経てロシア・ツァーリが成立するのは1547年。だが、前身のロシア・モスクワ大公国(1340年~1547年)の後期は、ほぼロシア・ツァーリ初代皇帝イヴァン4世ヴァシーリエヴィチ(=イヴァン雷帝/1530年8月25日生~1584年3月18日崩御)の先祖達=リューリク朝の時代でもあった。(祖父イヴァン3世 ヴァシーリエヴィチは、タタールの軛からロシア解放を成して「イヴァン大帝」と呼ばれている。)
因みに、ロシアが「自分達こそがローマ帝国の末裔国家=第三のローマ」と主張する理由は、イヴァン3世の正室ゾエ・パレオロギナが、最後の東ローマ帝国皇帝(ビザンツ皇帝)コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス(1453年5月29日崩御)の姪である事に因る。(※コンスタンティノス11世の末弟ソマス・パレオロゴス(=モレアス専制公)の末娘)
イヴァン3世とゾエの婚姻を機に、モスクワ宮廷はビザンツ帝国の使用語彙、儀式、称号、双頭の鷲の紋章などを使い始めた。今現在のロシア国章も鷲の紋章。後継国家を名乗った理由は、当時(今も)ビザンツ帝国が宗教的に最も信頼を寄せていた正教大国という位置付けにあったから。
イヴァン4世が正式戴冠したのは1547年1月16日ですが、父でモスクワ大公だったヴァシーリ―3世イヴァノヴィチの崩御 (1533年12月4日) を受け、僅か3歳でモスクワ大公位を継いだ。
成長していくにつれ、(元来、臆病な性格?)イヴァン4世はモンゴル人(タタール人)の逆襲を強く警戒するようになり軍備を強化する。それで出来上がったのがストレリツィと称されるロシア自慢の(極寒地をも物ともせず踏破する)銃歩兵隊。 ストレリツィが、常備ロシア軍の始まりであり、此処で鍛えられたおかげで探検家となる人も少なくなかった。現在の広大なロシア連邦(ソ連邦の頃はもっと呆れる程広かったが)は、シベリアその他を探検して回った人達の力があったからこそ。そして、この探検家達をロシア国家は強く支援した(尤も、探検隊の多くはコサックで、傭兵軍団と言えるものだけど)。
ロシアの東進
リューリク朝の終焉
1552年にカザン・ハン国の併合に成功したロシア・ツァーリは本格的に東進を開始。イヴァン4世崩御(1584年)の後を受けたリューリク朝最後の皇帝フョードル1世イヴァノヴィチは、後継者を遺せずに崩御(1598年1月7日)。リューリク朝が終焉すると同時に、フョードルの摂政だったボリス・フョードロヴィチ・ゴドゥノフ(1551年頃生~1605年4月13日崩御)がロシア大公位を戴冠。此処からロシア・ツァーリは崩壊の道を歩むが、それは同時に、帝政ロシア(ロマノフ朝)の扉を開く道となった。
話を少し戻すと、大公位について以降は猜疑心の強い陰鬱な男という印象となったボリス・ ゴドゥノフですが、摂政の頃までは実に勇敢で有能だった。この人は、タタールを先祖に持ちイヴァン4世の私設親衛隊(エリート親衛隊=秘密警察でもある)オプリーチニキに入隊して頭角を現した。オプリーチニキ隊長グリゴリー・ルキヤーノヴィチ・スクラートフ=ベリスキーに気に入られて娘婿となる。オプリーチニキは、反体制派に対する粛清度合いが酷過ぎて強い批判を受け続け、1572年に解散するが、それを機に政界進出を果たしたボリス・ ゴドゥノフは、先述のようにやがて摂政となる。
英雄イェルマーク
ボリス・ ゴドゥノフは、当時のコサックの頭領で探検家のロシアの伝説的英雄イェルマーク・チモフェーイェヴィチ(本名は、ヴァシーリー・ティモフェーヴィチ:1532年生~1585年8月5日没)の力を頼った。
イェルマークは、ロシア随一の大貴族家ストロガノフ家の支援を受けていたが(ストロガノフ家の傭兵だったと推察される)、1558年、ストロガノフ家はイヴァン4世によりカマ川とチュソヴァヤ川に沿って大きな荘園を与えられた。カザン・ハン国併合に続き、アストラハン・ハン国の併合(1556年)も成していたが、そういう一連の拡大政策に於いて、ストロガノフ家とイェルマークの活躍が認められての事だったと推測される。それを裏付けるように、イェルマークは、「カマ川沿いの豊かな地域」を植民地化する許可を得てその名を世に知らしめた(1558年)。
この頃からリヴォニア戦争が始まり、同時にクリミア・ハン国との対立も強まった中、イェルマーク率いる探検隊(と言う名のコサック軍団)の活躍の場は一気に拡大して、イェルマークは莫大な富を得て行く(が、ちゃんと公平に分配したことで彼の”英雄としての”名声も高まった)。
東側への冒険を始めたイェルマークは、1574年にはウラル山脈のカマ川水系とオビ川水系が入り組んだ低い部分を越えて、トゥラ川とトボル川の地域へ達する。タタール(モンゴル)には普通に知られていたその領域も、ルーシ人(ロシア人)が本格植民するのは、イェルマークなど探検者が切り拓いて行ってこそ成せたこと。そして、イェルマークの進路の多くがストロガノフ家の領地となっていく。
1577年頃に、シビル・ハン国がストロガノフ家のシベリアの所領地を侵し始めるが、そもそも、シビル・ハン国(ジョチ・ウルス系シャイバーニ―家の後裔国家)に言わせれば、「そこはタタールの土地だろう。」つまり、ルーシ人が侵略して来たことを防衛する戦い。立場が違うので戦争となるが、ストロガノフ家側の”戦争責任者”となったイェルマークは、シビル・ハン国を撃破。更に、追い討ちをかけたイェルマークは、シビル・ハン国の本領迄侵入して首都カシリクを陥落させる(1582年)。シビル・ハン国の”国民”や軍人達は四散するが、これ以降も激しい戦闘が各地で繰り返され、1585年8月5日に、イェルマークの本隊はゲリラ攻撃に遇って壊滅させられた。この時、英雄イェルマークも瀕死の重傷を負いそのまま他界する。
イェルマークの戦死は、他のコサックの団結を生み、コサックの大軍団の支援を受けたロシアは、シビル・ハンに勝利。1598年にシビル・ハンを完全併合する。 この併合は、ボリス・ ゴドゥノフにとっては大公として初の大仕事となったが、東進は続き西シベリア平原は完全にロシアの版図となる。 そして東シベリア進出への大きな足掛かりとなったことで、イェルマークの名はロシアの歴史に大きく刻まれている。
タラレバ・・・
ロシアという、当時の日本には馴染みのない国家がシベリアを東進している事など何も知らず、日本は冒頭のように関ヶ原の戦いなど、国内での覇権争いに終始していた。これが、本能寺の変など起きずに信長の織田家が政権を担う状態であったならどうだったか。
ヨーロッパ(西洋社会)との距離を近づけようとしていた織田信長の方針に沿って、信長が出来なかったにせよ、その後の日本の方が先に東シベリアを目指して西進していただろうと思う。が、明朝やモンゴル系諸国家やそしてロシアとぶつかっていたでしょうね。その結果は分からないが、日本や東洋ばかりでなく、世界中が、今とは違う歴史になっていたでしょう。
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