日本の伝統武道では、今も重視される「型」。武道流派の世界では、取り敢えず「型通り」に出来る事が免許皆伝の基準であり、強い・弱いの判断ではなかった。
師匠(先生、先人、先輩等々)の物真似をすることで「型」が身に着く、身に着いた「型」の見事さ、立派さによって評価されることを”伝統的に”受け入れ続けている。
それまでの型を寸分違わず行えて、尚且つ、自分の「型」を持つことが出来れば一流になれる。そのような教育を受けていた日本だから、先人を敬う心を忘れず、自分流の「型」がどんなに立派な完成品であっても謙遜こそ美徳とされた。
「型通り」を好んだ日本では、他人の理不尽な悪意に対しても、きっと自分の側にも非があったに違いないという考え方に至ることがある。つまり、「型」を間違っているのは自分ではないかと自問し、(非が無くとも)自分の側から詫びてしまうという不思議な習性が身に着いてしまった。そのような習性まで「型通り」に真似たから、詫び方にも多くの「型」が出来てしまった。どんなにきつく相手を懲らしめても、最後は詫びで閉じるような、それで全てを済ますような慣習も出来上がった。一言詫びを入れたかどうか、それこそが他人と接する「型」には必要だった。なので、相手を叩きのめす為の厳しい修行に耐えた仕合(試合)でも、礼に始まり礼に終わる「流儀」が誰にも求められた。
どんなに多くの成功を重ねた人であっても、礼儀知らずは嫌われる。それが日本だった。日本流の教育だった。
「型通り」の教育が行われるので、「型破り」であることは面白くは思われても多くの場合は嫌われた。特許性の高いものなど、突飛な発想が出来ることは喜ばれても、「型破り」=「無礼者」では誰にも認められずに表舞台で輝くことは皆無に近かった。しかも、「型」は強制されて学ぶのではなく、自らが選び学び取るものという考え方もあり、皆、競争してコピー人間となっていった。第二の誰々、第三の誰々、ポスト誰々、誰々の再来、誰々二世のような呼称を付けたがる。第一号の成功者を認めたがらず、必ず先人を挙げてその後継者であるかのように語られる。全く違う分野であっても、例えばサッカーのスターを嘗ての野球界の英雄に置き換えたりする。
でも、それでこそ日本は世界を席巻していった。スーパーヒーローが没しても、必ずその人の「型」を完全にマスターした、第二のスーパーヒーロー、第三のスーパーヒーローが後を追い、そして新たな「型」を起こして追い越して行った(冒頭の免許皆伝の考え方もこれに近い)。
「型に嵌める教育」かもしれないが、その実は、自ら「型に嵌ってみる」ことを目的とする。先ずは型に嵌まり、そこから新たな道を見つけ、真の「型破り」な成功へ切り拓く。このような考え方、育て方が日本独自の流儀だった。それは日本人にしか出来ない流儀だったから、日本ならではの成功者を続々輩出してきた。ところが・・・
「型通り」の中にこそ、日本なりの自由があったのに、それを理解し切れないアメリカ合衆国その他の「自由のお仕着せ」を受け入れた結果、ろくでもなく無礼で「型」知らずの人間達ばかりになった。だから、世界を驚かすような型破りの人が少なくなってきた。いずれ、日本的な「型破り」な人は出なくなるのではないか?と思う。
日本独自のそれこそ世界に誇れる文化である筈の「型」の流儀をもう一度ちゃんと根付かせないと、日本は廃れると思う。が、完全な欧米式国家・文化になりたいのなら別に文句もない。好きに自由に個性的にやればいい。しかし、個性的な人間ばかりになって、どうやってスペシャルな個性的スターを生み出せる?皆が、一通りのことをやれるからこそ、其処からちょっと変わった個性的なスターが生まれる筈なのだが・・・。
コメント