BCE1200カタストロフ

古代メソポタミア
BCE1200年のカタストロフ図(Wikipediaより)

カタストロフって何?

紀元前1200年のカタストロフ(紀元前1200年±50年頃とするのが正しいみたいですが)によって、約400年間アナトリア半島の支配者だったヒッタイト帝国が滅亡する。カタストロフが何だったのかについては、まだ正確なことは分かっていない。が、どうやら「海の民」と呼ばれた民族によって壊滅的破壊を受けたことは間違いなさそうだ。但し、「海の民」による破壊説についても幾つもの疑問が残る。

単に「海の民」の侵略行為だけで、当時としては強大国の一つと目されるヒッタイトが、跡形ない状態に”消滅”させられてしまうのだろうか?
ヒッタイトを滅ぼした「海の民」は、どうして新たな支配者としてアナトリアに国家樹立していないのか?
そもそも、「海の民」は誰達なのか?
フェニキア人という説が有力だが、交易で財を成していた商業の民が、わざわざ大きな取引相手を滅亡させるだろうか?

多分、現代でも度々トルコや周辺諸国を悩ませているアナトリアの巨大地震や火山噴火、大津波等々により、ヒッタイトの経済活動中枢部(首都ハットゥシャとその近郊や、沿岸部その他)が壊滅的被害を受け、それに乗じた何処かの民族による大略奪(正に、火事場泥棒)が起きた可能性はある。兎に角、記録も遺せないほど壊滅していて、正しい記録が何も出土していないので、何とも言えない。これもまた不思議な話で、ギリシア諸国、エジプト、アッシリア等々、ちゃんとした国家が存在していたのに、「カタストロフ」が何であるのか全く記録されていない。世界七不思議にも挙げられない。触らぬ神に祟りなし?

ヒッタイトが滅びて以降のアナトリアには、長い間、ヒッタイトのような完全な支配者が現れていない。ヒッタイトにとって最大の難敵だったアッシリア帝国などは、ヒッタイトがいなければすぐにでも遠征して来そうなものだが、アッシリア帝国内でもその他の国家でも、紀元前1200年のカタストロフによって政治が大きく混乱して、他国と戦争するどころではなかったと伝承されている。でも、「カタストロフ」が何かは分からない。大国一つ完全に葬られたのに・・・ほんと不思議である。

というわけで、アッシリアの西進も起きていない。ヒッタイト帝国が存在していた頃には、何度もアナトリアに対する侵略行軍を敢行したアッシリアでさえ動かなかった(動けなかった)ということは、やっぱりとんでもない天変地異がカタストロフの正体だと思うのですが、ほんと、何だろう?

因みに、「海の民」の襲来により大きな被害を受けた主な国家、文明地は下記の通り
エジプト(第19王朝/ラムセス3世が何とか撃退するが大きな被害になった)
ウガリット王国(紀元前1850年頃から続いていた古王国は、紀元前1180年に「海の民」により壊滅させられたと云われている。
エマル王国(紀元前3千年に遡ると云われる都市国家も、紀元前1200年頃に文明破壊された。)
ミケーネ(ミュケナイ)(紀元前1900年には文明化して隆盛を極めていたミュケナイも、紀元前1150年に「海の民」によって壊滅した。ミュケナイが滅びたことで、レバノンを拠点としてキプロス島などに展開していたフェニキア人が、ギリシア・エーゲ海諸地域との交易を拡大させて地中海の覇者とも云われた。そのことで、「海の民」=フェニキア人説に結び付いているが、これはちょっと疑わしい。

長続きしないアナトリア国家

ウラルトゥ

ヒッタイトが滅んで約300年。紀元前9世紀末頃には、アルメニア系と思しきウラルトゥ王国という国家が登場する。が、ウラルトゥの国家領域は、嘗てのヒッタイト帝国の西の端に少しかかるくらいで、其処から東へ伸びている。普通に考えたら、切り取り放題の西へ向かった方が楽に思えるが、300年近くも経って尚、その一帯には近づき難い何かを、当時の人達は感じていたのでしょう。
ウラルトゥは、当然ながらアッシリアと向き合うことになり、紀元前714年の戦争では、大敗したウラルトゥが滅亡寸前に追い込まれている。何とか持ち堪えたウラルトゥですが、紀元前585年にスキタイの南下を受けて滅亡した。ウラルトゥ王国が滅びた後には、現在のアルメニア人の祖先達が国家を興して、世界最古のキリスト教を国教とした国家が誕生するが、アルメニア正教会の誕生はずーーっと先の話。因みに、アルメニア人の国家誕生(再興国家?)を後押ししたのはアケメネス朝(ペルシア帝国)である。現在、ペルシアの位置にあるイランやイラクが、キリスト教国家を建国するなど有り得ないが、有り得ない事が起こるのが古代。有り得ないカタストロフも起きた。それが「古代の終焉」なのかもしれない。

フリギア

ウラルトゥやアッシリアが進出しなかった旧ヒッタイト帝国の”跡地”には、海を越えてギリシア人がやって来た。最初に到来したのはフリギア人(フリギア系ギリシア人)で、この人達のアナトリア登場はヒッタイトが滅びた頃に遡ると言われる。が、フリギア人がヒッタイトを滅ぼした張本人達とは言い難い。恐らく、ギリシアでの生存競争が厳しくなったので、(カタストロフが起きて)誰も追って来ないアナトリアに新天地を求めたのではないか。一種の賭けですね。黒海沿岸に細々と展開していたフリギア人も、400年も経てば大きな部族となる。そして、紀元前8世紀頃に王国成立(フリギア王国)を宣言した。ところが、建国場所が周囲の理解を得られなかったのか、紀元前7世紀末頃に黒海対岸のキンメリアの侵略を受けて国力は大きく低下する。国家の体を成さない状態で自然消滅し(但し、フリギア語を話す人達は、紀元前3世紀頃までアナトリア各地に点在したと言われる)、その頃から、アナトリアは(ようやく?)領土の奪い合いが激しくなっていった。

リュディア

国家の花が咲かない状態のアナトリアですが、紀元前1180年~紀元前700年のアナトリア(特に南東アナトリア)を指してシリア・ヒッタイト国家群と呼称する史家も少なくない。ヒッタイト人の生き残りが多くいたのなら、それこそカタストロフが何であったのかを語り継ぐことが出来たでしょうけど・・・。話題として触れるのもタブーだったのか?シリア・ヒッタイト国家群の人達の殆どは、フリギア人、或いはリュディア人であり、ヒッタイト人はいなかったとも云われるけれど、それならどうしてシリア・ヒッタイト国家群?ほんと不思議。

アナトリアの南東で、シリア・ヒッタイト国家群の主要民族の一つとして暮らしていたリュディア人達が、フリギア王国が体を成さなくなった紀元前7世紀頃にリュディア王国を立ち上げた。

リュディアについては、ヘロドトスが『歴史』の中で触れているし、ヘロドトス以前には、紀元前8世紀頃の詩人と云われるホメーロスが、「メイオン人」として書いている。リュディアは、その最大版図をアナトリアの西半分にまで拡大した。が、紀元前547年にアケメネス朝の侵攻を受けて滅び、リュディアはペルシアの属領となる。ペルシアの脅威が目前に迫ったギリシア諸国家は、ギリシア人同士で争っている場合じゃないと結束してペルシアと相対することになるけれど、ペルシア・ギリシア戦争は簡単には書けない。というわけで、この続きは逆に、リュディアの興亡に至る迄のオリエント古代史に遡ります。

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